「梔子」


BY 朔さま



胸を裂くような一言だった。

何故だろう、と高耶は思う。
本来なら喜ぶべき言葉なのに。例え安心することがあったとしても、不安に感じたりする言葉ではない筈なのに。
ここに連れて来られてから、酷いことばかりされてきたからかもしれない。直江の優しさの裏には、いつも想像を越えるような悪意があった。

だからだろうか。

「しばらくの間、あなたを抱きませんよ。」

穏やかな笑みを浮かべて告げた「主」の言葉が、こんなにも痛いのは。

あれから一週間が過ぎた。
直江は普段と変わらず、日に三度高耶を監禁している地下室を訪れては食事を与えた。
しかし、それだけだった。
高耶を抱くどころか、触れようとすらしない。
必要以上に近づくことさえせず、常に高耶と距離を置き続ける。
何も起こらない状況下で、スーツを着込んでいる直江の整然とした様子を眺めていると、高耶はいたたまれない気持ちになった。自分とは対照的な「主」の姿。この部屋に監禁されている半年間、直江が高耶の前で服を脱いだことは一度も無かったが、いつものように手酷い行為で追いつめられていれば、自分だけが裸でいることを考える余裕など持たずに済んだ。
高耶は着衣を許されないことがどれだけ苦痛か、わかっていたつもりだった。けれど、この状況に置かれてみて初めて、今まで感じていた「苦痛」など僅かな羞恥心でしかなかったことを思い知らされた。

ベッドに腰掛けて食事を摂っていた高耶は、自分の置かれている状況を正常な思考で冷静に考え、恥ずかしさのあまり俯いてしまった。
「…どうしたの? 手が止まっていますね。俺の用意した食事は口に合わない?」
直江の言葉に、食べなければまた罰を与えられるとわかっている高耶は、ゆっくりとスプーンを取り上げた。
「いい子ですね。」
まるで子供に言い聞かせるように微笑んで言うと、直江はゆるやかな動作で手を伸ばし、高耶の髪に触れる。
「………っ…」
直江の手が髪に触れた瞬間、高耶はビクリと躯を強張らせ、堪らず目を閉じた。
微かに零れた高耶の吐息が、それが恐怖の為ではないことを示している。
あの日から一週間、決して触れてはこなかった直江の手。
それが、こんなにも優しげに自分の髪に触れ、まるでいとおしむように髪を梳いている。
高耶はふいに泣きたいような感情に囚われた。

そんな高耶の様子を冷たく見下ろしながら、意地悪く直江が囁く。
「どうしたの、高耶さん……そんなに、俺に触って欲しかったの?」
揶揄するような言葉に、胸が締めつけられる。
……触って欲しかった訳ではない。なのに、何故、こんな気持ちになるんだろう…?
高耶には、自分の内側で混沌としている感情が理解できなかった。
「しばらく放っておいたから、つまらなかったでしょう? ……たまには変わった遊びをしましょうか。…今日は高耶さんのお誕生日だから、賭をして、俺に勝てたらプレゼントをあげる。」
唐突な言葉に、高耶は驚いて顔を上げた。
「俺も、少しあなたに飽きてきたんですよ、高耶さん。同じように抱いてばかりでは、あなたも退屈でしょう?」
「……賭け…って…何……?」
今度こそ本当に怯えた様子で、高耶が問い掛ける。
直江は形の良い口唇に冷たい笑みをのせて、賭けの内容を告げた。
「外に出たがっていたでしょう? ひとりで庭に出してあげる。1時間以内に俺の敷地内から逃れられたら、そのまま高耶さんを自由にしてあげますよ。」
「……逃げられなかったら…?」
「高耶さんが自分の意志で、俺の奴隷になるんです。俺が望めば、どんなことでも喜んで受け入れると誓うんですよ。今までみたいに、無理矢理従わされているなんて二
度と思わないとね。……どう? 悪い賭けではないでしょう? 外に出られるし、自由になれる可能性だってある。それに、いくら広いと言っても、この庭から逃げるのなんて1時間もあれば簡単ですよ。」
確かに、この屋敷の庭は広かった。
以前、直江が気紛れに高耶を散歩に連れ出したことがある。どこまでも続くかに見えた庭は、そのまま樹海にまで続いているような様相だったが、1時間もあれば少なくとも敷地内から逃げ出すことはできそうだった。庭を抜けられれば、樹海に入ってしまっても自由になれる。後はどんなに時間がかかっても、民家のある場所まで辿り着けばいい。
けれど、高耶は直江の真意を量り兼ねて、慎重に言葉を選んだ。
「…でも……こんな格好じゃ…」
「恥ずかしいの? ……相変わらず可愛いですね。いいですよ、今日は服を着せてあげる。もし逃げられたら、あなたのきれいな肌を他人の目に晒すことになってしまいますからね。」
「……本当に…?」
「服のこと? それとも、逃がしてあげるって言ったことを疑っているの? 大丈夫ですよ、約束は守ってあげる。言ったでしょう? 俺もあなたに」
飽きてきたんですよ、と笑んで、服を取りに部屋から出て行った直江に、高耶は戸惑いを隠せない。

……この生活が始まった日のように、終わりも突然訪れるのだろうか。
直江の気紛れで連れて来られたように、飽きられたから捨てられるのだろうか。
「捨てる」と言う言葉を連想して、高耶は息苦しくなった。
捨てられる訳じゃない、解放されるんだ。この部屋からも、あの行為からも。
高耶は身のうちに潜む気付いてはならない何かから目を背けるように、無理矢理自分にそう思い込ませた。

直江は薄手のシャツを持って戻り、当然のように自ら高耶に羽織らせると、一つずつ丁寧な仕種でボタンを嵌めた。高耶には長すぎる袖を緩やかに捲ってやり、それだけを纏った高耶を満足げに眺める。
「高耶さんの服は処分してしまったから、庭に出ている間、俺のシャツを貸してあげる。もし逃げられたら、このシャツは最後のご褒美にあげますよ。」
直江のシャツだけを着せられた高耶は、下着をつけていないことに抵抗を感じながらも、腿の中程まで隠れる長さの丈に自分を納得させた。

高耶は本気で逃げるつもりだった。
この機会を逃したら、もう二度と逃げることなどできないだろう。
……逃げたかった。
直江からも、自分の内にある知らない感情からも。
今ならば、まだ間に合う。
自分の意志で逃げられるうちに、ここから逃げ出してしまいたかった。

直江はそのまま高耶を地下室から連れ出すと、広間へ向かった。
広間の半面はガラス張りになっており、窓を開け放つとそのまま庭へと出られるように作られている。元来、広い庭園と広間を訪れた客人が自由に往来できるように設計されたのだろうが、この屋敷の持ち主である直江は、高耶の為に初めてその窓を開けた。
「さぁ、高耶さん、賭けを始めましょうか。俺はここで待っていてあげる。1時間経ったら、あなたを探しに行きますよ。」
「…庭から…出れたら…?」
「どこへでも、好きなところへ行くといい。この庭の中にあなたがいなかったら、俺の負けですからね。あなたは自由ですよ。」
「直江……」
高耶の肩を優しく抱くようにして庭に向けて立たせると、直江は庭園を眺められる位置に置かれたソファーへ静かに腰を下ろした。
「1時間後はちょうど夕暮れ時だから、日が落ちた時をタイムリミットにしましょうか。高耶さんにもわかるようにね。」
足元に視線を落としながら一歩踏み出すのを躊躇っている高耶に、直江が笑いを含んだ声で続ける。
「早くしないと夜になってしまいますよ、高耶さん。」
高耶はそっと庭へ足を踏み入れると、振り返らずに真っ直ぐ歩き出した。

……どれくらいの時間が過ぎただろう。
あれから、高耶は体力の落ちた躯で必死に走り、息が切れると足を緩め、また走った。
薄く霧のかかった庭園は何処までも続いているような錯覚を起こさせ、高耶は何度も目眩を覚える。手入れの行き届いた植込み、柔らかい下草の茂る細い道、鮮やかな花が咲き競う薔薇の生け垣。何度も同じ光景を目にしたような気がする。迷っているのかもしれないが、来た道を引き返す気にはなれなかった。
別の道と思しき場所を探しては、歩を進める。けれど、また、同じような場所に辿り着いてしまう。高耶は疲労のあまり、重い足を引きずるようにして歩く。既にどこへ行けばいいのかさえわからなくなった高耶は、ただ、「逃げる」ためにだけ歩き続けていた。

何度も繰り返し歩いたような薔薇の生け垣の途中で、ふと高耶の足が止まった。
微かに何かの匂いがする。甘くて、胸が詰まる香り。せつなくて苦しい香り。柔らかい風に乗って届いたそれを辿るように、高耶はその香りへ向かって歩き出す。香りは徐々に強くなり、高耶と世界を包み込む。

迷路のように入り組んだ生け垣を抜けると、そこには見事な梔子の木があった。
いくつもの円やかな白い花弁を静かに花開かせ、辺りに香りを漂わせている。
高耶は疲れ果てた躯でふらりと梔子に近づくと、その花のひとつに顔を寄せて目を閉じた。
梔子の甘い香りが高耶の躯に満ちてゆく。

「…ぁ……っ……」

刹那、高耶の胸に鋭い痛みが広がった。
この香り。焦がれるような気持ちで辿ってきた、この花の匂い…。これは…直江の、匂い。直江が俺の中に残す、あの残り香と同じ……。
高耶は愕然として、梔子の前に座り込む。

甘やかな梔子の香りが高耶を深くきつく包み込み、侵蝕する。強い香りに抱かれて、高耶は記憶の中の直江に犯されてゆく。

花の香りに陶酔して、高耶の息が少しずつ上がる。鼓動が躯の内側で響いてゆく。
高耶は震える指先をそっと唇に寄せて、微かに触れた。高耶の唇に、遠い感触が蘇る。

……たった一度だけ触れた直江の唇……まるで儀式のようだった。

触れるか触れないかの指先が淡く朱い痣の残る細い首筋を滑り、シャツの上から心臓を辿って、なめらかな脚の間へと落ちてゆく。
躊躇いながら、高耶はそれに触れて目を閉じた。

直江に教えられたように、自分でそっと掴み、緩慢な仕種でぎこちなく扱く。

―――――――……気持ちいい? 高耶さん。

直江の声が頭の奥で聞こえる。
「…なお……え…」

―――――――…俺にしてもらうのと、俺の目の前でさせられるのと、どっちが好き?

記憶の中で囁く直江の声に、小さく頭を振る。

高耶は微かに目を開けると、疲れ果てた表情のまま天を仰いだ。
光の名残を残した甘い色が宵闇に溶けてゆく。
濃紺の闇が淡いささやかな光を犯しているような夕暮れを眺めて、高耶の瞳に涙が溢れた。
遥かに見えた一筋の光が、零れた雫と同じ速度で土へ還る。
行き場のない闇の褥に残された高耶は、静かに目を閉じると、梔子の香りに身を委ねた。

微かな鳴咽を漏らしながら、高耶は緩やかに自分を追いつめていく。
記憶の底から直江の感触が蘇る。あの、手のひらの温度、指先の感触。羽根のような柔らかさでなぞり、鞭のような強さで捻り上げる支配者の指先。誰にも触れられたことのない躯を、意のままに弄び、思うさま嬲る残酷な直江の手。

―――――――………もっと…酷く、して欲しい…?

「……ぁ…なお…………」
いつも凍るような冷たい目で見られていた。煽られて息が上がるたびに、嘲るような言葉を囁かれた。
きっと誰よりも嫌われているのだと思う。それ以上に、憎まれているのかもしれない。初めて出逢ったときからずっと感じていた、鋭く突き刺さるあの感情。声を荒げることも、感情を昂ぶらせることもないまま凶行に及び、高耶の陥ちる様を観察するように眺めていたあの瞳。

……それなのに…
どうして、こんなに痛むのだろう……

甘やかな吐息が濡れた唇から零れ落ち、高耶は梔子に凭れ掛る。梔子の香りは高耶の熱を帯びて更に深くなってゆく。堪らずに縋りつくと、開きかけた小さな蕾が柔らかく頬に触れた。高耶はくちづけを求めるような仕種で、その花弁に唇を寄せる。

………直江の胸に抱かれているようだと思う。優しく抱きしめられているかのようだと思う。そんなことは一度だってなかったのに。

「…………っ…ぁ…なお……なおぇ…っ…!」

拙い動きで自らを追い上げた高耶は、躾を忠実に守るように、ただ「主」の名を呼びながら昇りつめ、砕け陥ちた。高耶の体液がシャツの内側に絡みつき、なめらかな内腿を濡らしてゆく。乱れた息を繰り返している高耶の躯が、ゆっくりと梔子の根元に崩れ落ちる。

高耶の瞳から、音もなく涙が溢れていた。

……逃げられないのは地下室からじゃない。この庭からでも、直江からでもない………

零れる涙を拭うこともできず力なく横たわる高耶の視界に、見慣れた革靴が映る。
高耶が歩いてきた薔薇の生け垣から、ゆっくりと直江が現れた。
「…逃げるんじゃなかったの? 高耶さん。」
「………なお…え……」
掠れた声で高耶が呟く。
「…俺のシャツをこんなに汚して……、悪い子ですね。ひとりで遊ぶのはそんなに楽しかった?」
「………」
否定することもできず、高耶はうつむいた。
膝を折って屈むと、直江は隠すようにシャツの裾を握っていた高耶の手首を掴み、汚れてしまった指先にくちづけるようにして囁いた。
「ひとりでしながら、あんなせつなそうな声で俺を呼んで……そんなにして欲しかったの? ……いつも嫌がっているくせに。」
高耶の顔がさっと青ざめる。思わず視線を合わせた高耶は、直江の目にいつもと違う色が浮かんでいるのに気付く。
「…見ていましたよ、ずっと……。いい子でしたね。命令しなくても、ちゃんと教えた通りの仕方でできるんだから。……俺のことを思い出しながら、ね…」
自分の痴態を見られていたことを知らされて、高耶は朱の差した顔を直江から逸らそうとする。しかし、直江はそれを許さずに高耶の顎を捉えると、静かに続ける。
「……でも、ひとりで遊ぶことを許した覚えはありませんよ。…賭けの途中で別の遊びに夢中になった罰と、俺の貸してあげた服を汚した罰も、ちゃんと与えてあげないとね。さっきのプレゼントは気に入らなかったみたいだから、代わりに高耶さんの大好きな酷いことをいっぱいしてあげる。……さぁ、籠へ戻りましょうね。」
高耶は逆らう気力もなく、震えの残る躯を起こすと、そのまま黙って連れ戻されるのを待っていた。そんな高耶の様子を見て、直江は意地悪く囁きかける。

「……どうしたの? 高耶さん。……ひとりで帰れるでしょう?」

高耶は驚いて直江を見上げた。
「……高耶さんは俺の奴隷になりたくて、賭けの途中で逃げるのを止めたんだから。」
「……なお…」
「もう、今までみたいに無理に連れ戻さなくても、逃げたりなんかしないでしょう?
 ……俺がここで見ていてあげるから、ひとりで籠に戻ってごらん。高耶さんが約束通りちゃんと戻れたら、後でご褒美をあげますよ。」
容赦なく連れ戻されるよりも遥かに残酷な「命令」に視界が眩む。
自分が賭けたものの大きさをまざまざと見せつけられて、脚が竦んだ。

しかし、暫く躊躇った後、高耶はうつむいたまま薔薇の生け垣へと歩き出す。
「逆らえない」のではなく「逆らわない」ことを行動で示すように要求されても、従うしかなかった。直江の命令に従っていると言うよりもむしろ、自ら賭けに負けた自分の愚かさに従っているような気がする。「逃げられなかった」のではなく「逃げなかった」のだと言った直江の言葉が頭から離れない。

……もう逃げ場はない。あの籠に戻って、見つめなくてはならない。目を背けてきたすべてのものを。

屋敷に向かって歩いてゆく高耶の細い肩が、徐々に小さくなってゆく。
直江は梔子の前に立ったまま、すべてを諦めたように歩く高耶の後ろ姿を見つめていた。
彼の人の影が遠くなり、視界から完全に隠れたのを確かめてから、直江は静かに背後に佇んでいる梔子を振り返ると、高耶の触れた小さな蕾に密かにくちづけた。


Fin



†椎名コメント†
朔様からの素晴しい頂き物です♪

いや〜、いいですね〜♪高耶さんが可愛い!!そして直江、キチクv

自分の意志で籠に戻っていく高耶さん。
戻った後は、めくるめくご褒美とお仕置きvが待っているのですね(うっとり)
やっぱり直×高ラチカンは最高です〜♪

朔様、素晴らしい作品をどうもありがとうございました!
これからもどうぞよろしくです♪