‡ CONSTANTINE ‡  mira vervion 4






浴室から激しい水音とともに、何かが倒れる物音がしたので、高耶は反射的に、たった今、閉めたばかりのドアノブに再び手をかけ、開け放った。

高耶が部屋に戻ろうとした、ほんの僅かの間に、男は地獄に行き、再び戻ってきたのである。

灰色の仔猫が、開いたドアから室内に駆け込んでくる。
見れば、浴室の、バスタブの脇に男が倒れ込み、苦しげに息をしていた。


「―――直江!」
高耶は驚いて駆け寄ると、ぐったりしている男を覗き込んだ。
男のずぶ濡れの黒いスーツからは、ドライアイスのような白煙があがり、強い硫黄のにおいが漂っている。

この時、高耶は、男の左手首の内側に刻まれた、深い傷痕に偶然、気づいてしまったが、見て見ぬ振りをして、喘ぐ男を抱き起こした。


細い腕に支えられ、ようやく男は上体を起こすことができた。
ごほごほと激しく咳込む姿を見かねて、高耶はそっと、広い背中を擦ってやった。

「すみません……」
衰弱しきった男は、苦しい息の合間に、それだけ言うのがやっとだ。

「いったい、何があったんだ?」
心配そうに問いかける高耶の傍らで、男は、乱れた呼吸をどうにか整え、
「……会ってきました」
と、それだけ言って、持ちかえった少女の遺品を手渡した。



男の眼に、リボンのように映ったもの。
それは病室aA姓名が書かれた、入院患者の識別用の腕輪だった。

妹の名が刻まれたそれを目の当たりにして、高耶の端正な顔がたちまち歪む。
手渡された腕輪からも、もはや嗅ぎなれてしまったあの硫黄臭が、強く漂っていた。

「残念ですが……妹さんはやはり……」
今度ばかりは、さすがにその先は言えず、男は、言葉を濁して眼を伏せた。

「どうしてっ……」
堰を切ったように、高耶の眼から涙が零れる。
声にならない慟哭が、胸に響いた。
おそらく、代われるものなら代わってやりたいと思っているに違いない。


直江がそっと両手を広げると、高耶はそのまま腕の中に崩れるように、男の胸に顔を埋めた。

声を押し殺す高耶を前に、かける言葉が見つからない。
どうしてやることもできない。
己の無力さに、改めて、男も打ちのめされる思いだった。
(高耶さん……)


彼女とコンタクトして、一つ、わかったことがある。
彼女は、これから起こりつつある異変も、その結果、高耶に危険が及ぶことも知っていた。
だからこそ、自分と高耶が出会うよう仕向け、このひとを……この手に、託したのだ。

(どうせこの身は長くはない。喜んで、地獄へ堕ちよう。だが―――)
男は、高耶を抱く腕に力を込めた。
何があっても……このひとだけは、守る。


抱きしめる体の鼓動が、濡れた服を通じて伝わってくる。
細い体の、思いがけない熱さに、このまま、この部屋に二人きりでいたら、よからぬ行為に走ってしまいそうで、男は、そっと彼を放すと、わざとぼろぼろの体を装い、照れ笑いのような笑を浮かべて言った。

実際、いまの地獄への往復で、気力も体力も使い果たしてしまった男の体は、ぼろぼろだったのだが。

「外へ出ましょう。何か、食べた方がいいようです」


***


終夜営業のファミリー・レストランで、男と高耶は向かい合っている。

客のまばらな店内の、窓側の席に陣取って、オーダーしたホットコーヒーを一口、含むと、ようやく、男は人心地をついた。

高耶の方も、場所を変えたことが幸いしたのか、どうやら少し、落ち付きを取り戻したかに見える。

気晴らしになるとも思えなかったが、男は、この世界には天国側と地獄側―――二つの勢力が存在していて、それぞれの側の人間との混合種(ハーフ・ブリードと呼ばれる)が、ひとに混じって生活しながら、互いに牽制しあっていることや、自分がこの仕事をはじめたいきさつなどを話しはじめた。

男の話の一つ一つが、到底、信じがたいものばかりではあったが、高耶はそれでもじっと耳を傾けていた。

「あの……直江さん……」
「直江でかまいませんよ」
「……いったい、いつから、ああいう力を……?」

男は薄く笑って、
「生まれつきです。物心ついた時から、ひとの眼に見えないものが見えていた。―――奴らは何処にでも現れる。子供だった私は、怖くて怖くて、どうにかなってしまいそうだった」

「……」
「必死に、見て見ぬふりをして……それでも、中学に入る頃には限界になりました。どれだけ、狂ってしまいたいと思ったことか」

同じ立場に置かれたら、誰だって耐えられないに違いない。
高耶は、淡々と語る男の人生を思い、いたわるような眼を向けて、
「―――それで、手首を……?」
「……気づいていたんですか」
男は、自嘲したように笑って、腕時計で隠されている深い傷をそっと覆った。

「死ねば、楽になれると思ったんです。でも……」
そうではなかったと、言いかけて、直江は口を噤んだ。
高耶の妹も自殺だったとわかったいまは、この話題を続ければ、せっかく落ちつきかけた彼を、また動揺させることになりかねない。

男は、さりげなく、最初から感じていた問を投げかけた。
「高耶さん……あなたにも……見えていたのではないですか?」

すると高耶は俯いて、
「どうしてそう思うんだ?」
「……あなたは、私の部屋で、手も触れずにグラスを割って見せたし、それに、あの建物には結界が張られていて、私と知人以外は、入れないはずなんです」

「……」
「それを、あなたはあっさり破って、私の元を訪れた。あなたほど、強いオーラを持ったひとに、今まで会ったことがない。あなたに最初、酷い態度をとってしまったのは―――正直言って、怖かったんです。いよいよ、その日が来たのかと」


黙って男の言葉を聞いていた高耶は、溜息をつくと、重い口を開いた。
「……隠していたわけじゃない。忘れてたんだ……」
男は、黙って、その先の言葉を待った。



「子供の頃、確かに、オレにも……普通は、見えないものが見えていた。でも、その頃は、オヤジとおふくろが、ちょうど仲が悪くなり出した頃で……オヤジは酒飲んで暴れるし、おふくろも参ってたし、妹もまだ本当に小さくて……」

当時の記憶が蘇ったのか、高耶は眼を伏せる。

「言ったとしても信じてもらえないだろうし、第一、オレがそんなこと言えば、妹が怖がると思って……おかしな物を見る度に、オレは自分に言い聞かせたんだ。こんなもの、嘘だ、見えるはずがないって。……そうしたら、ある日、本当に見えなくなった。……今日、あんたに会うまで、そのことすら、忘れていた」

男は、頷いて、
「それが、賢明です。おそらく、あなたは無意識のうちに、自分自身に暗示をかけて、あなた自身を守ったのでしょう。あんなものが、四六時中見えていたら、生きていけませんからね。私には、それができなくて、結果的に、過ちを侵してしまった……」

言葉を切った男は、そこで、ふと気づいたように、
「こういう風には考えられませんか?あなたが、妹さんを気遣って、異変に遭遇しても、気付かぬふりをしていたように、妹さんも、あなたに心配をかけまいと、特殊な力があることを隠していたとしたら」
「……まさか……美弥が、そんな……」
彼にとっては信じたくないだろうが、男は、先を続けた。

「あなたを襲った連中―――さっきも言いましたが、あれはこの世のものではない。妹さんは、あなたに危険が迫っていることを察して、夢を通じてあなたと私が出会うよう仕向けたんです」



このところ、急激に増えた超常現象の調査依頼。
これらも、おそらく、無関係ではないだろう。
何かが、起きようとしている。

「おそらく彼女は、他にもきっと、あなただけにわかるメッセージを何らかの形で残している。―――それを、調べてみようと思います」
高耶は息をのんだ。

「何をする気だ?」
「妹さんが入院していた病院……仙台でしたか?明日にでも、そこへ行ってみましょう。つきあって、頂けますね?」


***


一通り話を終え、高耶を車で家まで送り届けた男は、降りかけた彼をふと、思い出したように引き止め、左腕を差し出すように言った。

「―――?」
怪訝そうな高耶に、男は自分の腕から、何かの印が刻まれた、銀色に光るブレスレットを外して、細い手首に嵌め込んだ。

男のサイズでつくられているそれは、止め具をギリギリまでつめても、高耶には大きすぎたが、
「魔除けです。少し、大きくて邪魔かもしれませんが、後で鎖をつめさせますので……絶対に外さないで下さい」

間近に顔を寄せ、その眼を覗き込むようにして、男は念を押した。

「いいですか?入浴の時も、眠る時も、絶対に外してはいけませんよ。これさえ身につけていれば、万一、私のいない間に、奴らが現れたとしても、連中は手は出せない」

それを聞いた高耶は、
「でも……それじゃ、お前が……」
直江は微笑んで、ブレスレットと同じ印が刻まれたライターを取り出し、高耶に見せた。
「私にはこれがあります。いいですね。くれぐれも、外さないで」

高耶はわかったと頷いて、少し、照れたように言った。
「その……いろいろ、ありがとう」
男は微笑んで、
「それでは、明日の朝、迎えに来ます。―――おやすみなさい」

高耶が降りたドアを閉めかけて、男は思い出したように笑った。
「にゃんこにも、よろしく伝えて下さい」

走り去る高級車を見送って、高耶は、まだ男の温もりが残っているブレスレットの嵌められた手首を押さえた。


―――直江。
あの男には、何処か、あやうい魅力がある。
(……って、何考えてんだよ、オレはっ)


一人、赤くなって、部屋に戻ると、仔猫が喉を鳴らして擦り寄ってきた。
灰色の仔猫を抱き上げ、高耶は言った。

「お前は明日は留守番だ。大人しくしてろよ」




To Be Continued.