解毒「EXTRA VERSION」

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 うわっ、なんだよ、ギューギューじゃん。

 ホームに入ってきた電車を見て、高耶は一瞬、うんざりしたような表情を見せた。
いつも通学に使っている電車はこれほど混んでいないのだが……。

 今朝は出かけに、家の近くの空き地で偶然見かけた野良の仔猫が腹を空かして鳴いているのを見ておれず、ミルクをやる為に一本乗り過ごしてしまったのだ。
 満員電車は苦手だが、何がなんでもこの電車に乗らなければ始業時間に間に合わない。しかも今日は中間試験の初日である。遅刻するわけにはいかなかった。
 仕方なく降りてくる人間をかきわけ、どうにか満員の車両に滑り込むと、高耶は小さくため息をついた。



 流れる車窓を眺めながら、高耶はぼんやりと思う。
 あのにゃんこ……大丈夫だろうか。
 まだ生後、二ヶ月も経っていないのではないだろうか。
 ミルクをやり、その背を撫でてやり、高耶が行こうとすると、小さな体で必死に鳴きながら後を追いかけてきた。家が団地でなければ、飼ってやりたいが……。
 今日の帰りにまだあの仔猫が空き地にいるようなら、とりあえず、連れて帰ろう。

 そして、改めて飼い主を探せばいい。



 そんなことを考えていると、ふいに電車が激しく揺れて、高耶は一瞬、よろけてバランスを崩しかけた。
 車内が満員の為、倒れることはなかったが、その時、どさくさに紛れて一瞬、鞄を抱えた手の甲に、何か針が刺さったような、チクッと云う感触がした。
 だが、それは本当にほんの一瞬だったので、高耶は殆ど気にすることもなかったが。

 
 数分後、電車は松本駅に滑り込んだ。
 一分でも早くと、先を急ぐ人の群れに混ざって、鞄を抱えて階段を駆け上って行く高耶の後姿を、男は黙って見送った。
 愛している……許して下さい。



 ウイルスの潜伏期間は約二週間。
 発病まで早ければ数週間。遅くても一ヶ月。
 どちらにしても、高耶が普通の暮らしを許される時間は、あと僅かだった。
 男は人込みに消えていく制服の背に囁いた。
 高耶さん、来週は確か、修学旅行でしたね。家族やお友達との最後の時を、うんと楽しんで下さいね。






 
   
 その日、男の研究室に、政府関係者と名乗る人間から一本の電話が入った。
「はい、直江です。……なんですって?ちょっと待って下さい」
 男は急いでTVのスイッチを入れる。
 TVはどの局も、同じニュースを流していた。



 長野県松本市の、とある高校。
 校舎を取り囲むように、何十台もの救急車と警察車両が止められ、報道陣や野次馬も詰めかけて大騒ぎになっている。

 女性キャスターがカメラに向かってヒステリックに叫ぶ。
『……その少年は普段通り登校し、二時間目の授業を受けている最中に突然、発病しました。その時、彼の左目は、真赤に染まっていたと云います。クラスメート達は彼と目が合った途端に血を吐いて倒れ、助けに入った教員も次々と倒れました。
 病院に担ぎ込まれた教員、生徒は合わせて四十名にのぼり、中でも彼の近くの席だった数名の生徒と担任教諭は、生命の危険はないものの重態です。……尚、少年は現在、救急隊により保護されていますが、強いショックを受け、動揺しているものの命に別状はないようです……』

 男は受話器を持ちなおすと、
「今、ニュースを見ていますよ。患者の名前は?……仰木高耶、十七才。現在、彼はどんな様子ですか?……そうですか。ショックを受けているでしょうから、あまり彼を刺激して、追い詰めないようにして下さい。 発症箇所は?今のところ、左目のみですね?……わかりました。それでは彼の左目を包帯等で厳重に被って、すぐに私の所へ連れて来て下さい。手当ての際は、必ず防護服を着用すること。くれぐれも防護服の着用なしで、不用意に彼に近づかないように」




 
 電話を切った男は、尚も続くニュースに見入った。
 あれからまもなく一ヶ月。ずっと、この時を待った。
 あのひとが、もうすぐここに来る。

 男は、笑っていた。





 そして数時間後。
 直江は研究室の窓から、警察車両に先導された一台の護送車がやってくるのを、うっとりと見つめた。




 深い霧に閉ざされた、とある山奥にひっそりと佇む、医療法人上杉会付属の診療施設。法定伝染病や重度の麻薬中毒、精神病など、隔離が必要な患者が収容される、いわゆる隔離病院である。
 直江は四百年続く上杉会の、やがては後継者になるだろうと噂されている有望な医師だった。

 直江は生まれつき、人にない特殊な力を持っていた。
 たとえば伝染病患者の治療の際、護身波(バリア)を自身に張ることで、感染の心配なく患者に直に触れ、接することができる。
 直江はそうした自らの力を医療に役立てたいとして、数々の伝染病や難病の研究に力を注いでいた。
 中でもこの数年、特に力を入れているのが、この病の研究だった。
 この病に侵された患者に接し、治療できるのは直江だけだった。




 病院のエントランスで一人出迎えた直江の前に、護送車が横付けされた。
 運転席から降りてきた防護服姿の男は、直江の白衣の胸の名札を確認すると、ホッとしたように云った。
「……直江先生ですね。先ほどお電話した厚生省××局の者です。仰木高耶を連れてきました」
「ご苦労様でした。すぐに彼を出してあげて下さい」

 先に停車していた警察車両から、高耶の万一の逃亡に備え、やはり防護服に身を包んだ警官が銃を手に降りて来る。辺りはものものしい雰囲気となったが、それも無理はなかった。

 発病すれば、その深紅に染まった瞳から猛毒を発し、見る者すべてを傷つけ、殺してしまう恐るべき不治の病。原因は不明で、これと云った治療法もない。
 発症はごく稀だが、罹患すれば、患者は法によって終生、隔離病院への強制収容が義務づけられている。
 入院を拒否することは無論、自宅での療養も一切許されない。患者自身が兵器となりうるこの病は、本人さえその気になれば、大量殺人も容易に可能だからだ。
 万一、入院を拒否して逃亡を企てようとすれば、患者の射殺すらやむをえないと、この国の法律では定められていた。

 政府関係者の手で、厳重に施錠された護送車の鍵が開けられた。
「仰木君……大丈夫ですか?病院に着きましたよ」
 だが、呼びかけても、高耶は蹲ったままで顔も上げようとしない。直江が護送車の中を覗きこもうとすると、慌てて防護服の男の一人が止めに入った。
「先生、危ないですよ!防護服を……」
「大丈夫です。私には力がありますから」
 直江はかまわず、制止を振り切って車に乗り込んだ。



 

 薄暗い車内の隅で、高耶は壁に寄りかかってガタガタと震えていた。
「……仰木、高耶さん……ですね?」
 近づいた直江が声をかけると、高耶は怯えたように身を震わせて、目を逸らしたまま「来るな」と叫んだ。
 左目を被う包帯と、自殺と恐らくは逃亡防止の為に着せられたのだろう、拘束衣が痛々しい。
「高耶さん。ここは病院ですよ。私の名前は直江信綱……医者です。怖かったでしょう……もう大丈夫ですよ。何も心配いらないから……」

 安心させるように優しく云って、直江がそっとその肩に手をかけようとした途端、高耶が叫んだ。
「さっ、触るなっ……!」
 包帯できつく被われていても、その瞳から凄まじい毒が放出されて、直江を襲った。
 直江に力がなければ、即死しているところだ。

 この病は本人の精神状態が、病に侵された瞳から放出する毒の量を左右する。患者の精神が崩壊し、パニックに陥ろうものなら、未曾有の被害も出かねない。
 辺りに緊張が走り、防護服姿の警官が銃に手をかけようとするのを、直江は制して、
「高耶さん。大丈夫だから、怖くないから。落ちついて……」
「駄目だ、オレに近づかないでくれ。頼むからあっちへ行ってくれ!オレに触れるとあんたは死ぬ……!」
 啜り泣く高耶の体を、直江はそっと抱きしめて、
「大丈夫ですよ。私には力があるんです。だから防護服もいらないし、あなたのクラスメートみたいに、あなたと視線が合っても、倒れることもない。ほら、こんなに近くにいても、私はなんともないでしょう?」

 直江は力づけるように云って、高耶に自分を見るよう促した。
 怯えきっている高耶はなかなかこちらを見ようとしなかったが、それでも直江が優しく、根気よく声をかけ続けると、ようやくおずおずと顔を上げた。
 直江と名乗るその医者は、高耶がその目で見上げても、クラスメートのように吐血したり、倒れることもなく、穏やかに笑いかけている。
「……ほらね、大丈夫でしょう?」
「……ッ」

 一人でも、この世に自分と直に接することができる人間がいたことに安堵したのだろう。
 張り詰めていた糸が切れたのか、ふいに高耶の右目から涙が溢れ、高耶は声もなく泣き出した。
「高耶さん。泣かないで」
 だが、高耶は抱きしめられた男の腕の中で身を震わせる。
「……み、な……血、吐い……倒れ……オレの…せい……で……オレ、が……殺し……」

 直江はしゃくりあげる拘束衣の背をさすってやりながら、
「泣かないで、高耶さん。それは病気のせいで、あなたのせいじゃない。あなたは何も悪くない。それにクラスメートは死んでなんていませんよ。みんな、命に別状はないそうですから安心して。大丈夫。彼らはすぐによくなりますよ」
 そうして、ようやく少し落ち着きを取り戻した高耶の拘束衣に、直江が「苦しかったでしょう」と云って、手をかけようとすると、また、背後で政府関係者が声を上げた。
「先生、それは病室に入ってからにして下さい。仰木君、すまないが、これは法律で決まっていることだから……」

 彼らは高耶を恐れているのだった。
 見るだけで人を傷つけ、殺してしまう忌むべき病。
 高耶を安全な檻に閉じ込めてしまうまでは、決して安心できない。
「……高耶さん、すみません。窮屈でしょうが、病院に入ったらその服はすぐに脱がせてあげますから、あと少し我慢して下さい。歩きにくいでしょうけれど、私が支えますから……さあ、立てますか?」

 高耶はもはや抗う力もなく、素直に頷くと、促されるまま、フラフラと立ちあがった。
 震える脚は、思うように云うことを聞かない。
 直江は高耶が倒れてしまわないよう、しっかりと支えながら、ゆっくりと歩を進める。

 支えられ、ようやく護送車から降り立った高耶の、不自由な視界に飛び込んできたのは、窓に鉄格子の嵌め込まれたコンクリートの建物と、遠巻きに、だが万一にも自分を逃すまいと銃を構えて取り囲む防護服姿の男達。
 そして、彼らの背後には、深い霧に覆われた何処までも続く稜線。
 高耶は自分が連れて来られたこの場所が、ひどく山深い所だと云うことをその時、初めて知ったのだった。

 直江は男達の視線から高耶を庇うようにして、ふらつく体をしっかりと支えてやりながら、
「私はこのひとの診察がありますから、これで失礼します。後は、事務局で代理の者と話して下さい。千秋と云う医師が待機しています」
 そうして、直江は高耶を伴って病院の中へ入っていった。
 高耶が病院内に消えるのを確認して、男達の間から、誰となく一斉に安堵の息が洩れた。





 その日も、いつもと変わらぬ朝だった。
 髪型が決まらず鏡に向かううちに、少し焦がしてしまったトーストをパクつきながら、妹が問いかける。
「お兄ちゃん、今日の晩御飯何にする?」
「そうだな…久し振りにカレーでもつくるか?」
 そんな、何の変哲もない日常。
 早くに両親が離婚し、父親は数年前から単身赴任で家を離れており、家族は彼と妹の二人だけ。
 それでも、兄妹二人でつつましく仲良く暮らしてきた。それが、いったい、どうしてこんなことになってしまったのだろう。


 授業中、突然、それまで経験したことのないひどい偏頭痛に襲われて、高耶は思わず頭を抱えてうめいた。
「……仰木?」
 最初に高耶の異変に気づいたのは、隣の席の武藤だった。武藤は小声で高耶に話しかけた。
「どうした?仰木。大丈夫か?」
「ああ、なんでもな……」
 顔を上げて笑いかけた時だった。
 高耶と視線が合った途端、武藤の目が見開かれたかと思うと、その体がビクンと震えた。
「うっ、潮…?」
 高耶が叫ぶや否や、武藤はごほっと鮮血を吐いて机に突っ伏した。
「潮ッ!」
 高耶は驚いて武藤の体を抱き起こそうとしたが、その途端、クラスのあちこちで悲鳴が上がった。

 最初、高耶は武藤が血を吐いたから、みんなが騒いでいるのだと思った。
 だが、違った。
「仰木君、目が……ッ!」
 女生徒の悲鳴で、一斉に高耶に視線が集中する。
 その直後、高耶のまわりで次々に悲鳴が上がり、クラスメートがバタバタと倒れ出した。異変に気づいて駆け寄ってきた教師も、高耶と目が合った瞬間にどっと血を吐いて倒れた。

 床に転がり、胸をかきむしって苦しむクラスメート達の中で、何が起きたのかわからず、ただ一人茫然と立ち尽くす高耶。
 教室の後ろに張られた鏡の中に、信じられない自分の姿を認めて、高耶は声にならない悲鳴を上げた。
 左目が、深紅に染まっていた。





「高耶さん……」
 促されるまま、通された診察室の椅子に力なく坐り込み、ぼんやりとしている高耶を、直江は痛ましげに見つめた。

 打ちひしがれた彼を目の当たりにして、胸の痛みが、ないと云えば嘘になる。
 でも、それでも、このひとが欲しかった。
 もっと孤独になればいい。そうして、あなたにはもう、この世で俺しかいないと知ってほしい。
 大丈夫。家族のことも、クラスメートのことも、外の世界の何もかも、すぐに忘れる。
 あなたには、俺がいる。


「高耶さん……左目を診せて頂けますか?」
 直江が云うと、高耶は我に返ったのか、怯えたように首を振った。
「……どうして?」
「駄目、だ……先生を……殺してしまう……」
 俯いたまま、また啜り泣く高耶に、直江は微笑して、
「私は大丈夫だと云ったでしょう?私には人にはない力があるんですよ。子供の頃は、この力のせいで自分は普通の人と違うんだって苦しみましたよ。でも、医者になってからは、この力のおかげでたくさんの患者さんを治すことができたし、この力を持って生まれたことに、今は感謝しています。高耶さん……突然、こんな病気になってしまって、つらいでしょうけれど、私がついていますから……どうか、元気を出して下さい。この病院で私と一緒に、病気と闘いましょう」
「先生……」
 暖かな直江の言葉に、少し心を開きかけた高耶が、おずおずと顔を上げると、直江はにっこりと笑って、
「直江で構いませんよ。直江と呼んで下さい」





 そして……ベッド以外何もない、厳重に施錠された隔離病棟の一室で、高耶の闘病生活が始まった。
 生涯訪れることのない、いつか病が完治して、外に出られるその日まで。
  
                  

END?