寒椿

by 京香さま



どこまでも続くかのような雪の平原が、視界いっぱいに広がっている。 まだ、誰も足を踏み入れていないのか、行く手には降り積もったままの状態が延々と続いていた。その表面は、早朝の弱々しい陽の光に照らされてキラキラと輝き、見る者は目を眇めずにはいられなかった。
風は殆どなかったが、凍てついた空気は衣服の隙間から忍び込み、少しずつ持ち主の体温を奪っていく。ぶるりと体を震わせた青年を気遣うかのように、側に控えていた男の手が差し伸べられた。
ポスッポスッと歩くたびに、体重をかけられた雪が悲鳴を上げる。膝上まで潜るほど雪が積もっているので、とても歩きづらい。何度か足を取られた青年は、その度に男の力強い腕に支えられた。
雪の山道を歩き続けて、もう1時間になる。寒い筈なのに、二人の額にはうっすらと汗が滲んでいた。慣れない雪の山歩きで体力も大分使った筈だ。それなのに、二人は歩みを止めない。どこか目的があるとも思えない。二人の歩き方はしっかりしているのだが、行き先は掴めない。ただひたすら前に足を運んでいる、といった感じが見て取れた。
と、男のやや前を歩いていた青年が急に立ち止まった。幾分息を弾ませた青年の視線は木立の中へと注がれている。
そこに何があるというのか。
青年はじっと前方を見据えている。
「高耶さん…」
山道を歩き始めてから初めて男が声を発した。しかし高耶は、その男の呼びかけに答えぬまま男の前を横切り、木立の中に分け入っていく。行く手を阻むかのように突き出た木の枝を払いながら、高耶は中へ中へと歩み進んでいく。枝から落ちた雪が体にかかるのも気にしない。そんな高耶の後を、男はただ付いて行くだけだ。
暫くすると高耶は歩みを止めた。そのまま微動しない彼に疑問を感じた男は、後ろから身を乗り出す形で高耶の視線の先を追った。
「ああ…」
その光景を見た瞬間、男の口から感嘆の声が漏れた。
(これは……)
「見事、ですね……」
「あぁ…」
二人の前に佇んでいたのは、一本の見事な樹木。雪を被った枯れ木々の中、それだけが存在を誇示するかのように燃えるような紅の花を浮かび上がらせている。
寒椿だ。
寒椿とは椿の園芸品種の一群で、冬に淡紅色または濃紅色の八重咲きの花をつける、美しい植物である。普通なら見る者に清々しい印象を与えるの花なのだが、目の前の寒椿はどこか妖艶なものを纏わせていた。辺り一面、銀色の雪に覆われているせいか…。
それとも、毒々しい花の、色のせいか…。
白い空間にぽうっと浮かぶ紅い花が、どこか、妖しい…。
(しかし、何故こんな所に…?)
怪訝な顔をする男に高耶は呟いた。
「わからない……。けれど」
呼ばれたような気がして……。
高耶は前に進み出ると、1つの花をそっと手に取った。そして、紅く染められた瞳でその花をじっと見つめる。ルビーに似た深紅の瞳が銀色の世界で禍々しく煌めいた。
その横顔はどこか怜悧で、男にある人物を思い起こさせた。
(景虎さま……)
高耶の、緩く伏せられた瞳。
じっと真っ直ぐに注がれる、冷たい眼差し。
彫刻のように整った横顔。
それに、男は生前の景虎を思い浮かべずにはいられなかった。 勿論、今の高耶と生前の景虎は似ても似つかない。整った顔という点では一致するが、それは種類の違うものであった。だが、表面は似ていなくても、彼の醸し出す雰囲気や時折見せる何気ない仕草は、昔のままで…。そんな彼に、直江は時々どうしようもなく景虎を思い起こさずにはいられなくなるのだ。
(昔、たった一度だけ、見たことがある)
直江は、思いを馳せるかのように目を眇めた。

あれは確か、桜が散る前のことだった。
その時は互いに名前すら知らなかったけれど――。




桜の美しい季節だった。
今よりも自然に溢れたあの時代、見事な花を咲かせる桜は珍しいものではなかった。しかし、あの時見た桜の花は、今も忘れることは出来ない。それは、その桜の木の側にいた若者の姿が、あまりにも印象深いものであったからだ。
あの時の彼は、桜の木に凭れてひとり風に吹かれていた。風の噂で聞いていた通り、遠目にもわかる美貌の持ち主だった。
その彼が何を憂いているのか、首を傾げて今のようにそっと瞳を伏せていたことがあった。それが一層彼の美貌を一際美しく見せていたのだが、それは彼のあずかり知らぬところであった。人に見られているとも知らずに、彼は無防備にその姿を晒している。その、素のままの彼は、何て表現したらいいのかわからないくらい、とても美しく男の目に映った。
一つに纏めた髪が春風によって緩く波打つ。
その中で、彼は身動き一つせず、立ちつくす。
と、ふいに彼がこちらを向いた。自分に気が付いたのか、と、男は緊張したが、草木に隠れるようにして身を伏せていた為か、自分がここにいた事には気が付かなかったようだ。
頭上で鳥の羽ばたく音が聞こえた。彼は、音のした方に顔を向けている。どうやら彼は、鳥の気配に反応しただけらしかった。鳥が大空へと羽ばたいてしまうと、興味を失ったらしい彼は、また正面へと視線を戻した。
(あ…)
彼の瞳がゆるりと伏せられる。
「……」
男は思わず目を瞠った。
何て、何て美しいのだろう。男は息を詰めて景虎を見続ける。
細やかな動作の一つ一つが、息が止まるくらい美しい。男は、こんな美しい人間を見るのは初めてだった。そして、その彼の表情の曇り…。
何をそんなに憂いているのだろうか。
彼の儚げな表情の理由を知りたいと思った。思わず、体を前に進めようとして男は思いとどまる。
彼の前に出てどうするというのか。
彼は敵方の人間だ。
(相容れることは出来ぬ)
彼らの間を阻むかのように、桜の雨が静かに降り注いだ。

あの時は、結局声を掛けずじまいだったが。
瞳を閉じればいつでも思い出す事が出来る。
景虎の、瞳を伏せる瞬間の、壮絶なる美しさを男は未だ持って忘れることが、…出来ない。

今、高耶が浮かべている表情はその時の彼に、似ている。…いや、まさにそれだと言ってもいい。中身は、400年前から何も変わっていないのだ。
そんな高耶に思わず見とれていると、何を思ったのか、高耶が突然手にしていたその花を枝からもぎ取った。そのまま手の中でぐしゃりと握りつぶし、辺りに放る。
「………!」
白い平原に紅い花びらがパラパラと飛び散って綺麗な模様を描いた。 
高耶は手の中のものを全部払い落とすと、また次の花をむしりとって同じ行動を繰り返す。
その花も同じ運命を辿らせると、また次の花をむしり取って握りつぶす。
見事な花を付けていた寒椿は、高耶の手によって段々と見窄らしい姿へと変じ始めた。
それでも高耶は止めない。まるで、気が狂ったかのような高耶の行動に唖然としていた男は、我に返ると慌てて主君の暴挙の止めに入った。    
「止めて下さい!高耶さん!!」 
男の手が高耶の腕を取るが、高耶は必死に抵抗をしてその腕を払い落とす。男が後ろから羽交い締めしようとしても、すらりと身を交わされ、その腕は空振りするだけだ。爪が皮膚を破ってその腕から血が流れても、高耶は動きを止めない。めちゃくちゃに暴れて、男の制止を渾身の力を込めて阻んだ。高耶のその頑固な態度に男の腕にも力が入り、押されてバランスを崩した高耶共々、縺れるようにして雪の絨毯に身を沈めていた。
はぁ、はぁっという二人の荒い息だけがしん、と静まったその場を支配する。男は直ぐに高耶の上からどこうと身を起こそうとして、胸元に引っかかりを感じて動きを止めた。
高耶の手が男の胸元を掴んでいた。
どこか縋り付くように握りしめられたその手は小さく震えている。
寒さのためなのか、それとも……。
「高耶さん…」
男は高耶のその手を取ると、身を屈めて高耶の体を抱きしめた。熱い体温が衣服の上から伝わってくる。
(あたたかい……)
男はそのまま引き寄せられるかのように、高耶の赤い唇に自分のそれをそっと重ね合わせた。その唇は、寒さによってとても冷たくなっていたけれど、触れ合わせた部分から高耶の中を流れる熱い血液を感じる。それは、彼が生きている証拠だった。こんなにも熱く、力強く、彼が今ここに存在している証拠。
愛しさと共に切なさを感じて、男は痛みを耐えるかのように目を伏せた。
高耶の、誘うように薄く開いた唇の割れ目から舌を忍ばせると、舌を唾液ごと絡め取った。一滴も逃すまいとするかのように濃厚に。
高耶はうっすらと瞼を開き、男のなすがままになっている。その、何の感情も表していない瞳に胸が痛んだ。
(高耶さん……)
男が高耶の衣服を剥いて、その白い肌に唇を寄せても高耶は微動もしなかった。
「高耶さん。……何を考えているの?」
男が高耶の赤い蕾を口に含みながらそっと問いかけるが、高耶は黙したままだ。
「高耶さん……」
高耶は男のしたいようにさせている。
男の手が下半身を愛撫し、その身を熱い杭で割っても高耶は悲鳴一つ上げなかった。

彼の中は熱かった。冷えた皮膚とは対照的に。
男が身を進める度に、高耶のそこはキュッと窄まって男をより深く内へと取り込もうとした。熱い壁が淫らにうねって、男を翻弄する。
男は彼に溺れそうになるのを必死に耐えながら、彼を抱いた。彼の求めるまま、力強く…。
高耶の中に熱い生き物がいた。
それは突き上げる度に高耶を追いつめ奈落の底へと導いたが、高耶は流されまいと、ただじっと耐えるだけだった。



男の手が高耶の目元に伸ばされた。そっと拭われて、高耶は自分が涙を流していたことに初めて気が付いた。
「高耶さん……」
だが、男が呼びかけても高耶は答えない。
男は、乱れた高耶の髪を手櫛で直しながら、もう一度問いかけた。
「高耶さん。……何を怖がっているの?」
「…!」
やんわりと抱いていた高耶の体が、男のその問いかけにぴくりと動いた。怯えているかのようなその反応に痛ましさが込み上げてくる。
高耶は男から反らしていた顔をゆっくりと正面に戻した。その途端男の目を貫いたその深紅の瞳は、不安の為か揺らいでいるように見えた。
「……っ」
高耶に見つめられた途端、激しい動悸と目眩が男を襲った。だが、男は、苦痛を感じながらも高耶を抱く腕に力を入れる。
「……何があっても私が側にいるということを、忘れないで下さい。私にはあなただけなんです。あなたしかいない。あなただけが、私の生きる全て…っ」
だからあなたは一人ではないのだと……。
わかって、ほしい…。
「………」
男のその言葉は、やけにすんなりと高耶の中に落ちてきた。
囁かれた言葉は幾度となく繰り返されてきた言葉だったけれど、今ほど素直に受け取れたことはなかったと思う。男の髪に手を伸ばすと、高耶を抱く腕に力が込められたのがわかった。
男は、泣いているようだった。いや、泣いているとは言っても実際に涙を流している訳ではない。けれども、高耶には男が悲しんでいるように思えた。
(いつも、お前を悲しませてばかりだ)
高耶は切なげに瞳を揺らすと、男を慰めるかのように手を背中へ回した。
その行動に男は小さく目を見開く。
(お前の背中…)
この屈強な背中には、自分の為に負った傷がいつまでも消えずに残っている。自分のせいで痛い思いをさせておいて、それでも、この傷が残っている事に安堵する。
それは、自分の存在を肯定してくれる印に他ならなかったからだ。
(なおえ……)
瞼を閉じると、新たな涙が頬を滑り落ちた。
男は何も言わず、熱い体で高耶の凍える体を覆うと、その細い腰を強く手繰り寄せる。
ぬくもりと共に、男の悲哀に似た優しさが伝わってくる。
高耶は疲れたように目を閉じると、男をそのまま自分の元へと引き寄せた。
「………ありがとう、なおえ」
彼が発した言葉はとても小さかったけれど、男の耳には充分届く範囲のものだった。
何に対しての言葉だったのかは、わからない。
ただ、微笑みと共に涙が零れ、白い地面に溶けていった。




やがて、二人の周りにはまた白いものが舞い始めた。道の途中で斃れた二人をそっと隠すかのように…。
そんな二人を寒椿だけが、ずっと、見つめていた。




悲しみの、赤い涙を流しながら……。


 
END


京香さま、すばらしい作品をどうもありがとうございました(><)
あああ……高耶さんが切なくて愛おしいです;
本当にどうもありがとうございました!!
また、ぜひぜひ書いて下さいねー♪♪