「樹海の果て」


BY SHIINA



その日、戻った男を迎えたのは、いとしいひとの切ない呼び声だった。

「あー、あー……」
「高耶さん……!起きていたんですか」
男が驚いたように名前を呼ぶと、高耶は首輪に繋がれている鎖が届くギリギリのところまで這って来ていて、泣きながら手を伸ばしてきた。





地元の者でさえ、滅多に足を踏み入れることない、樹海の外れの小さな別荘。それが、男が選んだいとしいひととの終の棲家だった。

食料や薬などの生活物資が底を尽いた為、いつものように高耶に昼食を摂らせた際、睡眠薬を与え、彼が眠っている間に買出しを済ませて戻るつもりだったのだが……孤独に敏感な高耶は、思いがけず、早く目覚めてしまったらしい。

両手に持ちきれないほど抱えていた荷物を放りだし、男は慌てて床に倒れ込んでいるいとしいひとの元へ駆け寄って抱き起こした。冷たい床の上で、いったい、どれだけの間、そうしていたのか、細い体は、氷のように冷え切ってしまっている。

「高耶さん……」
壊れた紅い瞳から、とめどなく溢れる大粒の涙を指先で拭ってやりながら、男はすまなそうに囁いた。
「……淋しい思いをさせてしまいましたね。すみませんでした」
「……な……ぉえ………」
まともに言葉を発することのできない唇が、たどたどしく男の名を呼ぶ。見開かれた瞳から、はらはらと流れる涙。

「泣かないで。もう、何処にも行きませんよ」
何度も何度も繰り返し口づけて、あやすように抱きしめてやっているうちに、ようやく安堵したように痩せた体から力が抜ける。それを見計らって、男はいとしい体を軽々と抱き上げると、ベッドへと運んだ。





+++





上杉景虎こと、仰木高耶が魂核を蝕む不治の病に倒れて、二年。力強かった虎の眼はいつしか深紅に染まり、同時に病は彼から正常な意識と言語を奪った。

二年前。
当時、景虎の記憶を取り戻してまもない高耶と、彼への思いを押さえきれなくなっていた男の関係は悪化の一途を辿っていた。
そんな中、己の病を知り、もはや換生も不可能と知った時、景虎は上杉を色部勝長に託し、他の夜叉集に、今後は色部を総大将として、支えていくよう命じた。

病が進行すれば、魂は蝕まれ、人格は破綻し、やがて意志も持たない生きた人形に成り果てる。心が崩壊してしまっても、仰木高耶の宿体は死ぬことはないが、抜け殻のまま、他人に施しを受けて生き続けるなど、プライドの高い彼には到底耐えられることではなかった。
そうなる前に、自らの手で、長すぎたこの生にピリオドを打ちたい。

景虎は誰にも悟られることなく、上杉から忽然と姿を消した。
側についていながら、僅かに眼を離した隙に、みすみす景虎をいかせてしまった……己のふがいなさを、男は呪った。

あのひとを探しにいく。
男が云い出した時、上杉には動揺が走った。幸い、戦況は安定してきているものの、長い間、上杉を支えてきた景虎を失った痛手は測りしれない。その上、この男まで……二人が、一度に抜けてしまっては、受けるダメージはあまりに大きい。
だが、引きとめたからといって、聞く男ではない。
おそらく、男が景虎ともども二度と戻らないことをわかった上で、色部達は去っていく男を止めようとはしなかった。





景虎が、死に場を求めて辿りついた四国の地。
足摺近くの洞門で、ようやく男が彼を見つけ出した時、彼は服薬自殺を図って、意識をなくしかけていた。
力で劣る男は、どうあっても景虎に勝つことはできない。彼が薬で弱っていた為に、逆に助けることができたのは、あまりに皮肉だった。
朦朧とした彼に強引に水を飲ませて薬を吐かせ、無理矢理、彼岸へ引き止め……そして、どうにか、ことなきを得た景虎の首や手足に強力な霊枷を嵌めて、結界を張った樹海の果ての別荘に閉じ込めた。





窓もない殺風景な地下室。粗末なパイプベッドに枷で繋がれ、目覚めた景虎は、己の置かれた状況を知るや否や、冷ややかな眼で男を見据えた。

「……これはいったい……なんの真似だ、直江」
「そんなの、云わなくてもわかっているでしょう。俺の前から姿を消して……勝手に命を断とうだなんて。……おいたをした罰ですよ。この部屋で、あなたを飼うんです」
「……ふざけるな」
「ふざけてなんていませんよ」
男は景虎を寝かせているパイプベッドに徐に腰を下ろした。二人分の重みを受けて、ベッドが音を立てて軋む。

男は、シーツに泳いでいた景虎の首輪の鎖を掴んで、グッとこちらへ引き寄せると、鳶色の瞳を細めた。
「とてもよくお似合いですよ……傲慢すぎるあなたなんて、もっと早くにこうしてやればよかった」
「哀れな奴だな……こんなちっぽけな枷で、本当にオレをとらえることができたとでも思ってるのか?」
鼻で笑う景虎にも、男は動じなかった。

「その枷が本当にちっぽけかどうか。外せるというのなら、やってみればいい。できもしないくせに」
ぴく、と仰木高耶の眦が上がる。だが、すぐに、その瞳に明かな動揺の色が浮かんだ。
その気になれば、こんな霊枷、簡単に引き千切れると思ったのに……思念がまったく形にならない。

男は鳶色の瞳に諭すような笑を浮かべ、
「わかりましたか?その首輪や、手足の枷を外せない限り、あなたはもう、二度と力は使えない。……云っておきますが、助けは来ませんよ。この場所は私しか知らないし、それに、あなたは上杉を去り、私も上杉を捨てた身だ」
「……どういうことだ」
聞き捨てならない言葉に、思わず聞き返した景虎に、男はあっさりと、
「言葉通りの意味ですよ。あなたのいない夜叉衆に留まる意味など、ありますか?」
「………」
沈黙してしまった景虎の顎を、男は掴んでこちらを向かせた。
すると、景虎はまっすぐ、男を見返して、
「やめろ、直江。……今回のことは、眼を瞑ってやる。いますぐ、オレをここから出せ。そして、お前は上杉に戻るんだ。オレだけでなくお前まで欠けたら、上杉は……」

「関係ありませんね」
不遜にも、主の声を遮った男の声は、恐ろしいほど冷ややかだった。
「直江」
主君は臣下に報酬を与えるものですよ。
あなたに焦がれ、四百年、身も心もささげてきた哀れな犬に、いい加減、褒美をくれてもいいでしょう?

降ってくる唇を、景虎は拒んだが、男は構わず力づくで口づけた。荒荒しく貪ってくる男の唇を振りきって、景虎は苦しげに告げる。
「……よせっ、こんなこと、これはお前の本心じゃない。おまえは……」
「俺が、なんだというんです?あなたは、俺のこと何もわかっちゃいない。いままでわかろうともしなかったくせに」
「直江……!」
「無駄ですよ。あなたが何を云おうと、俺はあなたを逃がすつもりはありません。……震えていますね。怖いんですか?……心配しないで。怖くないから……」
男は自虐的な笑を浮かべ、嫌がる顎を押さえつけた。
「ずっと、勝ち続けてきたあなたに……従う喜びを教えてあげる。この体に、うんと倒錯的なプレイを仕込んであげる。あなたはすぐに、お気に入りの玩具のように、俺を手放せなくなりますよ。そうして、いつか……」

その先の言葉を、男は飲み込んだ。
……あなたが、この部屋で完全に壊れてしまっても。
俺がずっと、側にいるから。

抗う体から、容赦なく衣服が剥がされ、男の熱を直に感じ、追いつめられた獣が怯えたように男の名を呼ぶ。
「よせ……ッ……直江……ッ!」
のしかかる男を見上げる、景虎の哀れむような、傷ついたあの瞳を、男は生涯、忘れないだろう。





そして、二人だけのこの別荘で、病は容赦なく景虎を蝕んでいった。少しづつ自分が自分でなくなっていく恐怖に景虎は心底、怯えた。
「死なせてくれ、直江」
正気を失いつつある己を叱咤し、絞り出すような声で景虎は何度も、そう訴えた。
男が少しでも彼から眼を離す時は、舌を噛まないように、口枷を科さねばならなかった。

生き延びさせることが、どれほど景虎にとって辛く残酷なことか、わかりすぎるほどわかっている。だが、それでも、男はどうしても彼を逝かせることなどできなかった。
こんなにも、熱く、生きて腕の中にいるのに。
このひとを……どうして、失える?

例え、景虎の精神が崩壊し、彼が彼でなくなってしまったとしても。
抜け殻でも構わない。仰木高耶の肉体が、仮初の体であっても、生きてこの世にある限り、あなたに、側にいてほしい。
あなたといる。それ以外……他に何も望まない。
そうして、天命を全うし、あなたが逝った時、私も逝こう。
醜すぎるエゴと、凄まじい執愛。

許して下さい……。
血を吐くような男の言葉に、景虎として、仰木高耶として、最後の意識が途切れる寸前、彼が微笑んだように見えたのは、男の罪の意識が見せた幻だったに違いない。





長い昏睡に陥った景虎が半年の時を経て再び、目覚めた時、うっすらと開かれた双眸は深紅に染まり、その表情は虚ろで、もはやかつての彼ではなかった。
それでも、男はつきっきりで介護に努めた。意志もない人形と化した彼に食事を与え、排泄から入浴まで、すべての面倒を甲斐甲斐しくこなした。
彼はもう、その唇から辛辣な言葉を吐くことも、男の前から姿を消すこともなかった。
無論、笑顔で男の名を呼ぶことも、二度とない。
ただ、ベッドに横たわり、壊れきった紅い瞳を宙に泳がせているだけ。

許してもらえるとは思っていない。
こんなことをして……自分は地獄に落ちるだろう。
それでも。生きているこのひとと、二人だけでこうしていられることが、男にとっては幸せだった。





常に側に寄り添い、根気よく話しかけ続けているうちに、まったく無表情だった高耶の虚ろな瞳に、いつしか変化が現れた。
男の動きを、眼で追うようになったのだ。
おそらく、生涯、何の反応も示すことはないだろうと思われていただけに、深紅に染まったその瞳が、見えているとわかっただけでも、男にとっては嬉しい驚きだった。
更に月日が経つに連れて、無表情だったその顔に、少しづつ表情らしいものが生まれ、遂には、言葉らしいものも発するようになった。

「あー……、」
赤子のようなそれは、完全に壊れてしまった新たな仰木高耶があげた、悲しい産声だったのかもしれない。
それでも、自分を見つめて、必死に呼びかけてくる彼が、いとおしくて。
男は、来る日も来る日も、闘病ですっかり痩せてしまった体を膝に抱き、一日の大半をかけて、根気よく自分の名を繰り返し、教え込んだ。

自力でベッドに起きあがれるようになった頃、高耶は男の名が『なおえ』で、自分の名が『たかや』であることを理解したらしく、高耶さん、と呼んでやると微笑み、少しでも男の姿が見えなくなると、男の名を呼んで泣くようになった。
動物の赤子が、はじめて眼にした相手を親だと思い込むように、生まれ変わった高耶もまた、男を親のような存在だととらえているのかもしれない。





+++





冷え切った体をベッドに運び、寝かしつけようとしても、高耶は男の服を必死に掴んで、なかなか離れようとしなかった。
「あー……」
寒いのか、一人にされて、よほど怖かったのか。おそらくその両方なのだろう、細い体は、まだ小刻みに震えている。
「高耶さん……」
男は細い指に指を絡めて、啜り泣く耳朶に囁いた。
「もう、何処にも行きませんよ……泣かないで……」
「な……おぇ……」

羞恥も、抵抗も、拒絶も知らない。
生まれたてのように無垢ないとしい体に、男は欲望の楔を突き立てる。
悲鳴をあげ、思うまま貪られ、淫らな肉の結合の果て、しろいものを吐き出して意識を飛ばした高耶が、男の腕の中でようやく眠りについた時、その表情は安心しきった子供のように安らかだった。





幼い寝顔を見つめていた男の鳶色の瞳から、いつしか涙が落ちて、いとしいひとの頬を濡らす。
すると、眠っているとばかり思っていた高耶が、眼を開けて不思議そうに男を見上げ……あろうことか、驚くべき行動に出た。
いつも自分が泣いた時、男がそうしてやっているのを、覚えたとでも云うのだろうか?
ベッドに起きあがり、自分の指で、男の目元を拭う仕草をしたのだ。
「高耶さ……」
男は驚きのあまり、眼を見開いた。

「アー……、あー……」
言葉を発することのできない高耶が、必死に何かを訴える。
まるで、泣くなといっているように。

「高耶さん……高耶さん……!」
男は、細い首筋に顔を埋め、何度も何度も繰り返した。

許して……下さい。



慟哭を、樹海の木々が癒すように包み込む。
男と、壊れた獣の蜜月を、そっと見守るかのように。


2004.9.5. SHIINA


たまには……シリアスを。
読んで下さってどうもありがとうございました。