「樹海 EXTRA VERSION」


BY SHIINA



その家は、地元の者でも滅多に足を踏み入れることのない、樹海に分け入った湖のほとりに、人目を避けるようにひっそりと建っていた。
今から十年ほど前、他人との干渉を嫌い、隔絶された暮らしを望んだある画家が、己の資財を投げ打って、建てさせたのだという。

主亡き後、男の長兄が経営する不動産会社の手に渡ったものの、その立地ゆえに、新たな居住者が現れることもなく──荒れるにまかせていたその家は、高耶を伴い、男が外界から身を隠すのに、うってつけの場所だった。





食事のトレイを乗せたワゴンを引いて、男が寝室のドアを開けると、いつのまに目覚めたのか、高耶が自力でベッドに起き上がろうとしているところだった。
「高耶さん……!起きて大丈夫なんですか」
男は、ワゴンを放り出してベッドに駆け寄ると、今にも倒れそうな上体を支えた。

永遠に続くかと思われた長い昏睡から奇跡的に覚めた時、高耶は病の為に血の色に染まってしまった両の眼を、ぼんやりと見開いたまま、身じろぎもしなかった。
名前を呼んでも何の反応も見せず、その唇から言葉を発することもなく──弛緩しきった体を力なく横たえているだけで、もはや視力も聴力も失われているのではと思われたが、それでも男はベッド脇に持ち込んだ椅子に腰掛け、生きた人形のような彼の手を取って、根気よく話しかけ続けた。

それから、数日が過ぎたある日、彼の横たわるベッドに突っ伏し、うとうとしかけた男は、ふと視線を感じてハッと眼を開けた。
あろうことか、高耶が、頭をこちらに向けて、ルビーのような双眸をこちらに向けていた。
「高耶さん……?」
男は咳き込んだように、愛しい名を呼んだ。
「…………」
何の反応もはないものの、確かにその眼が、自分を『見て』いる。
以来、高耶は少しづつ男の動きを眼で追うようになり、窓越しに聞こえる野鳥の囀りに耳を傾けるようになり──今はこうして、自力でベッドに身を起こすまでに回復した。

とはいえ、彼が何か感情を現すことや、言葉を発することはなく、白い着物から覗く体は、男の胸が痛むほど、痩せ衰えてしまっている。
男はクッションをあてがったベッドヘッドに、高耶を寄りかからせると、寒くないよう、己の黒いジャケットを脱いで細い肩に羽織らせ、自らもベッドの傍らにそっと腰を下ろした。

幾度、繰り返したか知れない、愛しい名を呼んで、やつれた頬に手を伸ばし、そっとこちらを向かせる。額に手を当てて、熱がないことを確認すると、男はすっかり伸びてしまった前髪に指を差し入れ、そっと梳いてやった。
壊れた深紅の双眸が、己を捕えたような気がして、男は一瞬、息を飲んだが、すぐにその眼は焦点を失って、高耶は再び、虚ろな視線を宙に泳がせた。



痩せた首筋には、彼を無理矢理、この世に繋ぎ止めた男のエゴの証の霊枷が、今も外されることなく、まるで男を責めるかように、冷たい光を放っている。
青白いその光を見ていると、冷ややかな景虎の声が聞こえてくるようだった。

(これがお前の望みだったんだろう?哀れな仰木高耶の抜け殻を手に入れて、満足か?直江)

定まらない視線を彷徨わせている高耶を前に、男は鳶色の瞳から、静かに涙を落とす。



四百年にも及ぶ長い生の果てに、魂核を蝕む不治の病に倒れた景虎は、自我を失い、抜け殻として生き続けるより、ひととして死ぬことを選んだ。
冥界上杉軍大将として、己を殺し、すべてを捧げてきた彼の、思えばそれが最初で最後の我儘だった。
彼の、血を吐くようなその願いを、この男は無惨に踏みにじった──たまらず、細い体を掬いあげるように抱き寄せて、男は高耶の痩せた胸に顔を埋める。

すべてを背負う覚悟で、閉じ込めた。今更、許されようなどとは思っていない。
後悔などしていない。どれほど恨まれたとしても、例え地獄に堕ちようと、彼を失う以上の恐怖など、この男にはない。
それでも──死ぬより酷い目にあわせてしまった彼への謝罪の言葉が、堪え切れない慟哭が。
繰り返し、男の口をついて出る。



思えば、二年前。
記憶を無くした景虎を──仰木高耶を見つけることができたのも、奇跡だった。
景虎の生死がわからず、生きた屍のように過ごした日々。
あの地獄の日々の中で、もし再び景虎と会えたなら、ただただ優しくしたいと、それだけを望んでいた。
あのひとの願い、あのひとの望み。
そのすべてを受け止め、この手で与えられるものならば、すべてを与えたいと、己の存在すべてをかけ、全身全霊をかけ、願った。彼の眼から、もう二度と悲しみの涙など流させないと──この胸に、あれほど誓っていたのに。



「……高耶さん……ッ、」
痩せた胸に顔を埋め、嗚咽する男の耳に、薄い着物の生地越しに、トクン、トクンと云う微かな鼓動が響く。
己のエゴが繋ぎ止めたその鼓動に、涙を流しながら男は聞き入った。
闘病で痩せ衰えた体──だが、その体は、己の腕の中で、こんなにも暖かい。

──抜け殻でも構わない。
あなたが、生きて、腕のなかにいる。



長い間、痩せた胸に顔を埋め──ようやく顔を上げた時、男の眼は渇いていた。
しばらくの間、男は言葉もなく、愛しい顔に見入っていたが、やがて、そうしなくてはいられないとでも云うように、痩せて尖った顎に手をかけ、もの云わぬ唇に、そっと己の唇を押し当てた。

壊れ切った紅い瞳を見開いたまま、瞬きもせずに、高耶はその口づけを受け入れた。



To Be Continued.