UNTITLED 1

BY SHIINA


 夕暮れの松本市。

 その繁華街を一人で歩いていた高耶は、とある雑居ビルの前で足を止め、中に入るとエレベーターに乗り込んだ。そのまま真直ぐ、最上階を目指す。

 あやしげなテナントが何軒も入っているこのビルは、管理が杜撰で、もちろんエントランスに管理人などはいない。その上、屋上へ続くドアの鍵はいつも開けっぱなしで、他に誰かがいた試しもない。

 ……逃げ場のない高耶が見つけた、唯一落ち着ける場所だった。

 

 昨夜も父親が暴れた。妻が家を出てからというもの、ことあるごとに酒を飲んでは、中学生の高耶と、妹の美弥に当たるのだ。
 高耶達兄妹は母親似だった。特に高耶は母親に生き写しで、成長するごとに逃げた妻を思い出させ、それが父親をいわれない暴力へと駆り立てる。

 そんな家庭環境に育った高耶は、当然のようにグレた。
 煙草、喧嘩、暴走。だが、酒だけは苦手だった。匂いを嗅ぐだけで、アル中の父親を思い出すからだ。
 酒のかわりに、高耶がのめり込んだのがシンナーだった。
 シンナーを吸っている時だけ、何もかも忘れられる。


 最上階でエレベーターを降りた高耶は、更に階段を登り、屋上を目指した。隠れてシンナーを吸うのに、このビルの屋上は格好の場所なのだ。
 屋上へ出るドアの鍵は、この日もいつものように開いていた。
 ドアを開け、外に出る。もちろんそこには高耶の他に、誰もいない。
 自分だけの場所。高耶が薄く微笑んだ。


 すっかり日が落ちて、眼下に無数のネオンが広がっている。
 高耶は、シンナーが入った栄養剤の小瓶を手にしたまま、しばらくその光を眺めていた。
 申し訳程度の柵は、軽く飛び越えることができそうだ。
 ……一瞬、この光の海にダイブしてしまおうか、と考える。
 妹さえいなければ、とっくにそうしていたかもしれない。

 いったい自分は、何の為に生まれてきたのだろう?
 自分と妹を捨て、酒に溺れ、暴力を振るう夫から一人だけ逃がれて、他の男に走った母親。
 その腹いせからか、毎晩のように暴力を振るう父親。
 何もかもうんざりだった。何で自分は生きている?

 長いこと暗い思いに囚われていた高耶は、不本意にも、そこに誰かがやってきたことに気付かなかった。
 ふいに、背後に人の気配を感じて、ハッと振り向いた。

 ドアの前に、男が立っていた。
 高耶は舌打ちして、咄嗟に手に持っていた小瓶を、制服のポケットに隠すように突っ込んだ。
 中学生がシンナーを持っているのを見咎められれば、面倒になるのはわかっている。
「先客がいるなんて……めずらしいですね」
 そう云って、男は高耶のそばまでやってきた。

 男はかなり長身だった。190近いのではないだろうか。年令は20代後半ぐらいか。
 モデル並みの端正な顔に、高そうな黒のスーツを着こなして、手には煙草と缶ビールを持っている。
 いずれにしても、こんな雑居ビルの屋上に、のこのこやってくるようなタイプには見えない。

 突然現れたこの男に、高耶は警戒心を露わにしたが、男の方はまるで気にした様子もなく、高耶の隣にやってきて、眼下に広がる光に目を細めた。
「ここはいいですね。俺もよく来るんです。景色見るにはいいし、うるさい管理人もいないし、手すりも低いし、死のうと思えばすぐ死ねますしね」

 死、と云う言葉に反応して、高耶は、
「お、オレは別に、」
「いいんですよ、隠さなくても。俺だって、何度もそうしようと思いましたから。それにあなた、俺が来なかったら今にも飛び降りそうだったじゃないですか」

 高耶が言葉に詰まっていると、男は笑って、
「別に止めませんよ……でもその前に、せっかく会ったんですし、よかったら少しお話ししませんか?……そうだ。いい薬あげましょうか」
 そう云って、ポケットから何か錠剤が入った瓶を取り出した。

「手を出してごらんなさい」
 普段なら見知らぬ人間と話すなど考えられない高耶だったが、今の彼は少々自暴自棄になっていたので、云われるまま手を差し出した。
 白い小さな錠剤が一つ、手のひらに乗せられた。

「……何の薬?」
 錠剤を弄びながら、高耶が聞いた。すると男はにっこりと微笑んで、
「いい気持ちになれる薬ですよ。あなたの制服のポケットに入っている、シンナーなんかよりよっぽどいい。それに、どうせ死ぬつもりだったんでしょう?なら、何の薬でもいいじゃないじゃないですか」
 そう云って男も、自ら錠剤を一つ取り出し、高耶の目の前で、手にしていた缶ビールで流し込んだ。

 高耶は云い返せないでいる。どうやら、シンナーを持っていることもバレているようだ。
「…………」
「少し、ぬるくなってしまいましたが」
 そう云って、男が飲みかけの缶ビールを差し出した。

 シンナーは吸うのに、まさか酒は苦手だとは云えないので、高耶は黙って受け取った。
 男は微笑したまま、少年を見つめている。
「……飲まないんですか?ああ、それとも怖いんですか?」
 そう云われると、負けず嫌いの高耶は、むきになった。
「怖くなんかねーよ」

 ……そうだ。どうせ自分なんて捨てられた存在なのだし、どうなったって構わないのだ。それにこの男だって、たった今、目の前でこの薬を飲んでも、何ともないではないか。
 ままよ、と、高耶は自棄気味に錠剤をビールで一気に流し込んだ。
 高耶が錠剤を確かに嚥下したことを見届けた男の口端が、かすかに歪んだことに、高耶は気付かなかった。

 一瞬の、勝利の笑。

 次の瞬間、男は何ごともなかったように、また温和な笑を浮かべて、苦手なアルコールの匂いに顔を顰め、少し咳き込んでしまった高耶に、
「大丈夫ですか?」
と訊いた。バカにされたような気がして、高耶は無理して残ったビールをあおった。

 もしかして毒かと思われた薬は、やはり何ともなかったらしい。
 男は、高耶の内心の安堵をわかっているようだが、それには触れず、ふいに神妙な面もちになって、
「……少し、俺の話を聞いてくれませんか?」
と、高耶が何か答える前に、勝手に話しはじめた。

「……ずっと探している人がいたんです」

 遠い目をする男の横顔。
 その顔がひどく寂しそうに見えて……その表情に、高耶は一瞬、自分と同じ孤独を見たような気がして、つい聞き返してしまった。
「……探してる人?」
「ええ……長い間、その人が生きているかどうかもわからなかったのですが……会いたくて会いたくて。いつも、どんな時も、その人のことを思わない日はありませんでした」

「……それって、あんたの恋人かなんか?」
 すると、男は照れたように微笑して、
「……だったらよかったのですが、残念ながら片思い……でしょうか。その人は、俺の気持ちを知っていたんですけどね」
「ふーん」
 それは何となく以外な気がした。これだけいい男を振る女がいるとは。
 高耶は思わずクスッと笑ってしまった。男もつられたように苦笑して、
「おかしいですか?」
「あ、いや、悪ィ。あんたみたいないい男、振る女もいるのかと思ってさ」

 男は笑を浮かべたまま、一旦言葉を切ると、ジャケットの内ポケットからパーラメントを取り出し、一本銜えて火をつけた。いかにも慣れた、優雅な仕草。
 深く吸い込み、紫煙を吐き出すと、男はまた喋り出した。

「……どこに行っても、その場所に、その人がいないか探しました。あらゆる手段で、できる限りの手を尽くして……死にもの狂いで探しましたよ。……でも、どうしても見つからなくて……もしかしたら、その人はもう、この世にいないかもしれないと、何度も死んでしまおうかと思いました。でも……」

「……見つかったのか?」
 男は極上の笑みを浮かべて、頷いた。
「ええ。……本当に長かったですが、その人を……やっと見つけました」
「そっか……よかったじゃん」
 すると男は、夢でも見るように高耶を見つめ、にっこりと微笑んだのだ。

「でも……驚きましたよ。……ようやく会えたというのに、その人は、今にもビルの屋上から飛び下りようとしてるんですからね」
「えっ……、」
 その言葉に、高耶は驚いて、思わず男の顔を見てしまった。男は微笑っていたが、その目はまったく笑っていなかった。
「……探しましたよ……景虎様。……いえ、今の名前は、オウギタカヤ、でしたね」

 ふいに本名を呼ばれて、高耶は狼狽えた。
「な、何で、俺の……、」
「知っていますよ。あなたのことは何でもね……」
「あ、あんた……、」
 思わず、高耶が一歩後退さった。
「私が誰か、わかりませんか?……本当に何も覚えていないのですか?」

 男が悲し気に呟いた。
「あなたが……痛ましいですよ」
「何云って……オレはあんたなんか……」
 高耶の本能が、この男は危険だと叫んでいる。
自分はこんな男など知らないし、人違いでもないとすれば、答えは一つ。
 この男が狂っている以外、考えられないではないか。

 高耶は恐怖から、じりじりと後退さり、思わず逃げ出そうとしたが、なぜか意志に反して、体が動かなかった。
「……な、に……?」
 ふいに、目の前の男の端正な顔がぐらりと歪んだ。そのまま視界がぼやけていく。
(さっきの薬!)
 咄嗟に高耶は気づいたが、今となってはもう遅い。
「な、に……、の、ませ……」
 倒れ込む体を、男の腕がしっかりと支えた。振り払おうにも、まったく力が入らない。

「……効いてきたみたいですね」
 男が微笑んだ。そして、自分の口から、おもむろに白い小さな錠剤を取り出した。
男は、飲んだふりをしていただけだったのだ。

「あなたにこの薬を、どうやって飲んでもらおうかと思っていたのに、自分から飲んで下さるとは思いませんでしたよ。見ず知らずの人間にもらった薬を飲んでしまうなんて、いけませんね……大丈夫、怖くない。ほんの少し眠くなるだけですから……心配しないで、高耶さん」

 男はまだ話し続けているが、もう高耶には男の言葉が理解できなくなっていた。気が遠くなっていく。
 腕の中で、完全に意識を失くした高耶の、細い体を抱きしめて、男は夢見るようにつぶやいた。

「景虎様……やっと会えた。もう、二度と離しません」


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