「untitled」





薄暗いワンルームの一室。

設置されている無数のモニターが、とあるオフィスの日常を映し出している。

モニターに向かっていた男の手が、手元のキーボードに伸び、何かの操作をすると、たちまち、映像が一人の青年に切り換わった。

仰木高耶――まだ、少年と言っていい、若く端正な顔がアップで映し出されると、男は、満足げな表情を浮かべる。

伸ばした指先でモニターの中の彼の頬にいとおしげに触れると、うっとりと話しかけた。
「……随分、待ちましたよ……この日を」


仕事を終え、オフィスを後にした高耶がエレベータに乗ると、男はモニターをエレベータ内に設置されている監視映像に切りかえる。
他に乗り合わせた者がいないせいか、オフィス内で上司に見せていた表情とは違い、少し疲れたようなその顔が、たまらなくいとおしく見えた。


入社して一週間。
社会人になって、初めて向かえるこの週末を、彼は内心、待ちわびていたに違いない。

同期入社の仲間は皆、高耶より四歳も年上だから、同僚とはいえ、何かと気苦労もあるだろう。
(お疲れ様でした。今週は、入社式や研修で、いろいろと大変でしたからね)

やがて、エレベータが一階に着き、高耶がエントランスを出ると、男はモニターを離れて窓辺に向かった。

東京タワーや六本木ヒルズ、遠く新宿の高層ビル街、レインボーブリッジ……見事な眺望には目もくれず、男はひたすら、手にした双眼鏡で高耶だけを追う。

今日は、もしかしたら何処かに出かけるかもしれないと思ったが、やはり慣れない環境で一週間を過ごしたことで、疲れているのだろう。

予想通り、彼はショッピングアーケードのある駅方面には向かわず、まっすぐにこちらへと歩いてきた。

オフィスのあるビルから、ゆっくり歩いても五分もかからないこのマンションは、複合スーパーやビデオ店などのテナントが多数入居しており、必要以上に出歩かずに済む。

迂闊に電車通勤をさせれば、いつ、悪い虫がつくとも限らない。
高耶の自宅にこのマンションを選んだのは、やはり正解だったようだ。

いとしいひとが一階のストアに入っていくのをその目で確認すると、男は満足げに微笑んだ。

「いい子ですね……高耶さん。そう。仕事が終わったら、まっすぐおうちに帰っていらっしゃい」
―――寄り道をして、おいたをしたら、お仕置きですよ。



まもなく、居住者専用エレベータ内に設置されている防犯カメラが、ショッピングバッグを下げて乗り込む高耶の姿を捉えた。

高性能のエレベータは、数十秒で彼の部屋のある最上階に着く。
一挙一動を監視されているなど夢にも思わない高耶は、通路を抜け、男の部屋の前を摺り抜けると、自宅のドアに辿り着いた。

男はモニター前の椅子ごと、背後を振り向く。
「―――おかえりなさい、高耶さん」

壁一面に張り巡らされた、大きなマジックミラーの向こう側。
無事、帰宅したいとしい獲物に向かって、男はにっこりと微笑んだ。


***


ジャケットを脱ぎ、ネクタイを緩めながら、ダイニングテーブルの椅子に坐り込んだ高耶は、ふと、ワンルームの壁一面に張り巡らされている鏡に目を遣った。

(やっぱり、落ちつかねえな……)
ため息をつくものの、文句は云えない。
この部屋は、会社が寮がわりにと、自社物件の中から用意してくれたものだからだ。

家庭の事情で大学への進学を諦めざるを得なかった高耶は、高校卒業とともに上京し、橘不動産に就職した。

本音を云えば、高耶には目指していた職業があったし、取り立てて不動産業界に興味があるわけでもなかったのだが、大卒でも就職活動が厳しい今、採用してもらえただけで感謝すべきなのだろう。

その上、こうして職場に近い部屋まで用意してもらい、我侭なのは充分、わかっているのだが――それでも、上司に伴われ、初めてこの部屋を訪れた時から、どうにもこの部屋に馴染めなかった。


眺望が売りの為、ベランダ側の壁がガラス張りなのはわかる。だが、もう片側の壁が、一面、鏡張りと云うのは、やはり落ちつかない。
おまけに部屋とバスルームを区切る壁も一面、鏡とガラス張りである
これでは遊びに来たがっている妹を呼ぶのも、なんとなく憚られる。

いわゆる、デザイナーズ物件で、見る者が見れば「お洒落な部屋」らしいのだが、高耶には単に悪趣味としか思えなかった。


(カーテンでもつけるか……)
全部は無理としても、せめて鏡の半分でも覆ってしまえば、少しはイメージも変わるかもしれない。
無駄な金は使いたくないが、とりあえず、明日、見るだけでも見に行ってみようか。

高耶は気を取りなおすとバスルームに向かった。


***


見られているとも知らずに、細い肢体を無防備に晒し、目を閉じてシャワーを浴びるいとしいひと。
マジックミラーの壁のこちらで側で、男はうっとりと囁く。

(綺麗ですよ……)
首筋から鎖骨、薄い胸のピンク色の飾り、細く引き締まった脇腹……鏡の上から、淫らな指先で辿りながら、男は思った。

この体に、欲望を突き立てるその瞬間を、どれだけ長い間、待っただろう。

高耶を攫い、閉じ込め、欲望のままに飼うことは、実は男は、その気になればいつでもできた。
だが、せめて高校を出るまではささやかな自由をあげようと、今日まで待ったのだ。

父親の会社の取引先に手を回し、不渡りを出させ、進学を諦めさせたことはすまないと思っているが、これ以上は待てなかった。


そして、思い通り、あなたは俺の元にやってきた。
何も知らずに―――こんなに近くに。

(あなたはもう……俺のものだ)
鏡越しにうっとりと、男が囁く。暗い欲望に眩暈がする。




シャワーを終えた高耶は、タオルで無造作に体や髪の水滴を拭いながら、冷蔵庫のドアを開け、ミネラルウォーターのペットボトルを取り出して、一気に半分ほどを飲み干した。

留守中、男が密かに部屋に入り込み、ボトルに睡眠薬を仕込んだことも知らずに。

薬の効果は劇的だった。

睡魔よりも、激しい眩暈を感じて、急速に握力を失った手のひらから落ちたペットボトルが勢いよく床に転がり、残っていた水がフローリングの床に零れる。
それと同時に、細い上体がぐらりと揺れた。

「―――!」
自分にいったい何が起きたかもわからず、咄嗟に己の体を支えようと、テーブルに向かって伸ばされた手が、虚しく宙を切る。
力なくその場に倒れ込むや否や、高耶はぴくりとも動かなくなった。


まもなく、深紅の薔薇の花束とアタッシェを抱えた長身の黒いスーツ姿の男が、徐に室内に入ってきた。
広いワンルームのキッチン近く、フローリングの床の上。
いとしいひとが崩れるように眠り込んでいる。

「……高耶さん……」
男が上体を抱き起こして、そっと名前を呼んでも、深い眠りの中にいる高耶は身じろぎもしない。

幼い、無防備な寝顔に口づけ、生まれたままのいとしい体を恭しくベッドに横たえると、男はアタッシェを開けた。

これから迎える破瓜の瞬間―――その一瞬の表情を刻むビデオカメラ、眠りから覚めた時、暴れないようにする為の枷やハーネス、そして、彼の為に用意した、様々な玩具。


いとしい頬を撫で、男はうっとりと囁く。
(愛していますよ……大丈夫。怖くないから……)

やがて、薬による強制的な眠りの前に、長いことピクリとも動かなかった体が、ビクン、と震えた。

まもなく、彼は意識を取り戻す。

目覚めたその瞬間から、その身に生涯、悪夢のような快楽の日々が待っていることも知らずに。