「untitled」5






男から、コンタクトのないまま迎えた、翌月曜日、午前八時。

まだ体調が万全ではない高耶が、重い体を引き摺るようにしてオフィスビルのエントランスをくぐると、ちょうどエレベータが一階に降りてきていて、一人の男が乗り込むところだった。

黒いスーツ姿の長身の男は、エントランスに現れた高耶に気付いたらしく、一度は閉まりかけた扉をわざわざ開いて待ってくれている。


エントランスからエレベータまでは、数メートルの距離がある。

今の体調では、僅かな距離を急ぐのもきつく、正直なところ、構わず先に行ってほしかったのだが、せっかくのひとの好意を無下にもできず、高耶は痛む体をおして、エレベータへ急いだ。


「……ありがとうございます」
乗り込みざま、高耶が小声で礼を言うと、男は無言で微笑み返してきた。

おそらく、無理をしたせいで体に響いたのだろう、端正な横顔が青ざめている。

さりげなく背後にまわった男が、細いスーツの背を注意深く観察していると、行き先の階数ボタンを押す指が、微かに震えているのが手に取るようにわかった。

あれから二日が過ぎたが、まだこの体に、はじめての結合の名残が色濃く残っていることをその眼で確かめ、男の顔に笑が浮かぶ。


(―――高耶さん……)
音もなく扉が閉まり、静かに上昇をはじめる狭い密室の中で、たまらず細い背に手を伸ばしかけ、あやうく男は踏み止まった。

焦る必要はない。
このひとはもう、自分のものなのだから。


やがて、エレベータがオフィスのあるフロアに到着し、会釈して降りて行く背を、男は微笑みながら見守った。


始業時刻まで、まだ、一時間近くある。
まだ、完全には回復していない体で、高耶がこれほど早く、出勤してきた理由は容易に想像がついた。

おそらく、他の者が出社する前に、あの部屋のデータを調べるつもりなのだろう。
とあるフロアでエレベータを降りた男は、一人苦笑した。
(本当に、困ったひとだ)


***


エレベータホール脇の通路を進み、『橘不動産』と書かれた扉の壁面のスリットにIDカードをスライドさせると、カチッという音とともに、ロックが解除される。

扉を開けて、無人のオフィス内に脚を踏み入れると、高耶はまっすぐに、あてがわれている己のデスクへと向かった。

シックなグレーと白を基調にしたフロアは、大手企業や個人資産家向の高級物件を扱う社のイメージそのままに、個々のデスクが壁で区切られた、ゆったりとした配置になっている。

上司や同僚が出社するまで、かなり余裕がある。
男が予想した通り、高耶はあの部屋の前居住者のデータを調べるつもりだった。



デスクに着くなり、息つく間もなく、ノートパソコンを立ち上げる。
とにかく、何でもいいから手がかりが欲しい。
だが、自社所有物件の詳細データにアクセスしようとしたところで、不意に聞き慣れない携帯の着信ベルが鳴り響いて、高耶はビクッと身を竦ませた。

一瞬、誰かが出勤してきたのかと思ったが、音は、あろうことか高耶が坐っているデスクから聞こえてきている。

怪訝に思いながらも、音のする抽斗を開けるなり、高耶はガタンと音を立てて椅子から立ちあがっていた。

まだ完全には回復していない体がたちまち悲鳴を上げたが、そんな痛みなど気にしている場合ではなかった。

抽斗から出てきたのは、鍵のないステンレス製の手錠と目隠し、そして、けたたましく鳴り響くイヤホン付の携帯電話。
「………ッ」
IDカードがなければ、このフロアに入ることはできない。
やはり、あの男は、同じ社内の人間だ。

慌てて周囲を見まわすが、無論、高耶以外、人の姿はない。
そうしている間も、着信ベルは止むことなく鳴り続ける。

動揺し、なかなか電話に出られずにいると、ノートパソコンのディスプレイが新着メールの受信を告げた。

覚えのないメールアドレスで、送信者名は不明。
『電話に出て下さい』
タイトル、本文ともにそれだけだった。

尚も躊躇っていると、すぐに二通目のメールが届いた。
今回は添付ファイルが添えられている。

開かずとも、メールの文章だけで、そのファイルがどんなものか、容易に想像がついた。
『そうしていつまでも愚図っていると、この写真を家族や友人にばらまきますよ?』

明かな脅迫に、高耶はカッと赤くなり、ギリッと奥歯を噛み締めながらも、渋々、携帯を取り上げた。

相手の番号は非通知になっている。
通話ボタンを押すと、もはや聞き慣れてしまった、あの声が響いてきた。

『……やっと出てくれましたね。おはようございます、高耶さん……その後、体調はいかがですか?』
しゃあしゃあと告げる男に、殺意すら覚える。

「―――てめえ……ッ、」
怒りのあまり、声にならない高耶に、男は、
『まだ、始業まで時間がある。こんなに早く出社したのは、私に、かまってほしかったんでしょう?望み通り、遊んであげますよ。今すぐ、お部屋の鍵と、手錠と目隠しを持って、屋上に来て下さい。屋上についたら、自分でしっかりと目隠しをして、後ろ手に手錠をかけること。それから、この電話は切らないで、イヤホンを耳に入れて、私の声が聞こえる状態にしておいて下さいね』

「ふ……ふざけるな!」
高耶は真赤になって怒鳴った。

だが、男は無論、動じるどころか、淡々と、
『ふざけているのは、あなただ。俺に断りもなく、勝手に鍵を付け替えて……おいたをしたらお仕置きだと、あれほど教えてあげたのに。家族が心配じゃないんですか?それに、いつまでもいうことが聞けないなら、素直に聞ける体になるまで、何処かに閉じ込めてあげたっていいんですよ』

「……ッ、」
穏やかではあるが、電話越しであっても、男が恐ろしいほど本気なのだと云うことが伝わってくる。
怒りとともに、背筋に冷たいものが走り、何も答えられずにいる高耶に、男が冷ややかに告げる。

『さあ、こうしている時間がもったいないですからね……早くして下さい』


仕方なく、携帯をスーツの胸に仕舞い、イヤホンを装着した高耶が、付け替えたばかりの部屋の鍵と手錠と目隠しをポケットに忍ばせて、エレベータで最上階に向かうと、普段は閉め切られているはずの屋上への扉が、開け放しになっていた。

「………、」
思わず、脚が止まってしまうと、すぐにイヤホンの向こうから、叱咤する声が飛ぶ。
『何を今更、躊躇っているんです?もたもたしないで』

(―――見られている?)
周囲に男の気配はなく、通路に監視カメラが仕掛けられているとしか思えない。
いずれにしても、ここまで来てしまったら、高耶にできることは一つしかなかった。


***


高いネットが張り巡らされた屋上は、ひどく殺風景で、給水タンクが設置されている一画以外はガランとしている。

男が、イヤホンを通じて、改めて目隠しと、後ろ手に手錠をかけるよう指示してきた。

「………、」
鍵はないから、嵌めてしまったら最後だ。
それに、いつ、男以外の誰かがやってこないとも限らない。
だが、他に方法はない。

高耶は仕方なく、せめて隣接するビルから死角になるように、巨大な給水タンクの外壁に身を寄せ、観念したフリをして、大人しく目隠しをつけた。

黒い布製の目隠しは、まったく光を通さなかった。

目を開けていても、漆黒の闇が視界を埋め尽くし、それだけで不安を煽ったが、高耶は仕方なく覚悟を決めて、自ら、後ろ手に手錠をかけた。

ガチャンという音が、視界を奪われ、敏感になっている耳に殊更、大きく響く。

「…………」
ジャケットの袖で隠すようにして嵌め込んだそれは、片方の手首が抜ける程度に緩めてある。

男が現れたらイチかバチか―――そう思った体が、不意に背後から抱きすくめられた。

気配を消して、背後から近づいた男は、高耶が手錠を緩めて嵌め込んだことなど、とうに気づいていた。
「本当に悪い子ですね、あなたは」

「―――!」
甘い毒を孕んだ囁きに、声にならない声を上げて、咄嗟に抜こうとした手首に、男の力で改めてきつく手錠を嵌め込まれた。

両手首に容赦なく鉄の輪が食い込んで、たまらず苦痛にうめく高耶に、男は「あなたが悪いんですよ」と叱咤するように囁く。

「離せよっ……!」
尚も抗おうとする体を、荒荒しく給水タンクの外壁に押しつけ、逃れられないよう追いつめると、男は形のいい顎を押さえて深深と口づけた。

「―――ッ」
優しさの欠片もない、気狂いじみた口づけ。
しかも、はじめての時と同じく、男の顔も見えず、わかるのはただ自分を抱く強引な腕と、声だけ。

屈辱と恐怖から、高耶がもがけばもがくほど、尚も折れるほど抱きしめられ、唇を貪られる。

元々、力の差がある上に、完全には回復しきっていない体では、到底かなうはずもなく、男が唇を離すと、高耶は呼吸を求めて苦しげに喘いだ。
(高耶さん……)

男は、当然の権利とばかりに高耶のスーツの襟に手をかけ、強引に脱がしにかかった。
逃れられない高耶の声が上擦る。
「なに、す……!」
「そんなの、決まっているでしょう。おいたばかりしているあなたに、お仕置きするんですよ」

いくらなんでも、こんな時間にこんな場所で……羞恥と屈辱に「やめろ」と叫んでもがく耳朶に、
「そんな声を出して。ひとがきても知りませんよ?それとも、男に抱かれる恥かしい姿を見られたいんですか?」

本当は、男が部下に命じて人払いをさせているから、例えどれほど大声を上げたとしても、誰も来はしないのだが―――そんなことなど、無論、知る由もない高耶は、唇を切れるほど噛み締め、震えながらも抵抗をやめた。

男は満足げに微笑んで、背ける頬をうっとりと撫でる。

「そうですよ……どうせ、逃げられはしないのですから、そうして大人しくしていた方がいい。ここは死角になっていますから、隣のビルから覗かれる心配もありませんし、あなたさえ騒がなければ、まず、誰かに見られる心配はありませんよ。それに」

男は、尚も悪戯っぽく付け加えた。

「今はしないから安心して。あなたも、処女を無くしたばかりで体がつらいでしょうし、ただ、確かめたいんですよ。私のものになったあなたを」

抵抗できない体を押さえつけ、ネクタイを引き抜いてシャツの胸をはだけさせると、露になった肌に、はじめての情事の痕が消えずに残っている。

「高耶さん……」
首筋に散る、花びらのようなその痕を男の唇が辿る度、細い体がビクッと震えた。

男は、シャツだけではあきたらず、スラックスにも手をかけた。

「―――やめ、ろっ……、」
高耶はさすがに制止を求めて抗ったが、男は構わずベルトを外し、ジッパーを下げ、そのまま、有無をいわせず下着ごと引きずり下ろした。

「……ッ!見る、な……ッ」
引き締まった下肢や、内腿にも、無数の情事の痕が花びらを散らしたようにうっすらと残っている。

「もう少し、脚を開いて」
男は己のつけた足跡を確かめるかのように、それらの一つ一つを指で辿り、内腿の付け根の一際目立つ紅い痣に恭しく口づけた。



白昼堂々、屋外で男にすべてを見られる羞恥と屈辱に、涙が溢れ、目隠しを濡らす。

男は、まるで主の元に跪く忠実な下僕のように、壁に寄りそうように立たせたいとしい体をうっとりと見上げた。

「高耶さん……くれぐれも、忘れないで下さいね……あなたの、この綺麗な体は、あなたのものじゃない。私のものだということを」

男は意味ありげに笑い、青ざめた唇を噛み締め、言葉を無くしている高耶に、そのままじっとしているように命じた。

男が何かを取り上げる気配がする。
不吉な予感に囚われた高耶が、どうにか逃れる術はないものかと身じろぎした途端、無造作に萎えた楔を握り込まれた。

「……ッ!」
不意打ちのように急所を掴まれ、声も出せない高耶に、男は優しく叱咤するように囁く。

「じっとしているように云ったでしょう。いいから、このぼうやを怪我したり、痛い思いをしたくなかったら動かないで。すぐに済みますよ」

「なに、す……」
目隠しを強いられている高耶にはわからないが、男が手にしているのは、先端部分が異様に細長い、小型のスポイトのようなものだった。

男は、握り込んだ楔を事務的に扱き、無理矢理、半勃ち状態にさせると、容赦なく先端の割れ目に細長いスポイトの先を沈めていった。

わけもわからないまま、敏感な箇所を弄ばれ、鈴口に異物を挿し込まれた高耶は、声にならない悲鳴を上げた。

「やッ……」
苦痛を訴えるまもなく、挿入された管のような異物の先端から、生暖かい液体が注ぎ込まれる。

「ア――……ッ、」
本来、排出のみに使われる器官に、薬液とともに小さな錠剤が侵入したことを高耶は知らない。

ペニスから管のようなものが抜かれた途端、高耶は小さくうめいて、たまらずその場に崩折れそうになったが、男の腕がしっかりと抱きとめた。

「しっかりして……今からそんなになってしまって、どうするんです」
本当のお仕置きはこれからなのに。


歪んだ笑とともに、幹に冷たい金属のようなものが触れる。異様な感触に、高耶は怯えたような声を上げた。

「……なに……す……」
「あなたのような悪い子を躾ける為に、こういう道具があるんですよ」

男はこともなげに云って、弱々しく抵抗する体を甘く叱咤しながら、金属製のハーネスを手際よく施していく。

根元をリングで締めつけ、付属の下向きの金属の筒に楔を通して、外れないように南京錠でロックすると、男は羞恥と屈辱に身を震わせているいとしいひとに、クスクスと笑いかけた。

「とってもよくお似合いですよ。後で目隠しを外したら、その目で確かめてみるといい」

「………ッ」
屈辱にギリッと唇を噛み締める高耶に、男はわざとらしく、
「トイレの心配はいりませんよ。ちゃんと、さきっぽが出ていますからね」

ほら、と、より羞恥を煽るような言葉を吐いて、銀色の筒から覗いている先端をツーッと指先で辿る。高耶は悲鳴を上げて、すぐに真赤になった顔を背けた。

「ああ……もう少し、ここであなたと遊んでいたいのですが、そろそろオフィスに戻らないといけませんね。あなたは新入社員ですし、遅くなったら困るでしょう」

男は名残惜しげに微笑むと、まるで高耶がいとしい着せ替え人形であるかのように、恭しく乱れた衣服を整えはじめた。

スラックスを履かせ、大きくはだけてしまっているシャツを着せかけ、ボタンを一つ一つ留めてやり、次いで、ネクタイをしめてやろうとして、男はふと、手を止めた。


「………このネクタイは、確か、美弥さんがあなたの就職祝いに選んでくれたものでしたね」

その言葉に、高耶の顔色が見る間に変わった。
「なん、で……それを……」
男は、こともなげに、

「云ったでしょう?あなたのことは、なんでも知っていると」
「………っ。……おまえ」
「……なんです?」
何かを云いかけ、高耶は唇を噤んだ。

改めて、迂闊に動いて妹に何かあったらという不安とともに、男の自分への執着を見せられた気がして、背筋が冷たくなる思いだった。

―――他の誰かの心配をするなんて、随分、余裕がありますね。

そう云いかけて、彼の家族にすら嫉妬している己に、男は、苦笑する。
だが、例え実の妹であっても、高耶が自分以外の誰かにプレゼントされたものを身につけているのは、やはり内心、面白くはなかった。

すべての身支度を整えてやると、男は、高耶の上着の内ポケットに入っていた部屋の鍵を取り上げた。

「これは預かっておきますよ。今日の帰りまでには返してあげますから、安心して」
おそらく、合鍵をつくるつもりなのだろう。

「………」
高耶は顔を背けて俯いたままだった。
「高耶さん……」

背ける顎を押さえて、再び、深深と口づける。高耶は弱々しく抗ったが、その抵抗すら男には心地よかった。

「今から、手錠の鍵を渡します。後ろ手でも、鍵さえあれば一人で外せるでしょう?外した手錠や目隠しは、ここに置いていって構いませんよ。くれぐれも、おかしな考えは起こさないで下さいね?それが、あなたと、あなたの家族の為でもあるのですから」

男は、更に、ジャケットの胸ポケットに入れっぱなしになっていた携帯を手で示して、
「何かあったら、これで私を呼ぶといい。仕事中でも構いませんよ。ココが……」

男は、スラックスの上から、高耶の金属製のハーネスをつけられた箇所をぞわりと撫で上げ、意味ありげに笑った。

「苦しくなったら、いつでも外してあげますよ」


***


手渡された鍵で、高耶が後ろ手の手錠をどうにか外して目隠しを取り去った時には、男の姿は消えていた。

「………ッ」
再び、いいように弄ばれてしまった屈辱に新たな涙が込み上げ、高耶は手錠をコンクリートの床に思いきり叩きつける。

打ち捨てられた手錠はガシャンと派手な音を立てたが、重いステンレス製のそれは、無論ビクともしなかった。
「畜生ッ……!」

こうしている今も、何処かであの男が自分を見張っている気がする。
己の無力さを呪いながらも、無人の屋上を後にした高耶は、弱っている体を叱咤するように、のろのろと階下のトイレに向かった。

人目を忍ぶように入った車椅子用の個室で、はじめて自身に架せられた金属のハーネスを確かめ、愕然とする。

ペニスを包み込むように覆う、下向きの金属の筒は、根元のリングに繋がれていて、南京錠でしっかりとロックされていた。

無駄と知りつつ、高耶は、どうにか枷を外せないかと試みた。が、激しい苦痛に襲われるだけで、どうあっても自力では外せそうになかった。


***

結局、一時間も早く出社したにも関わらず、高耶がオフィスに戻ったのは、始業ギリギリの時刻だった。

無人だったオフィスは、大勢の社員で埋まり、部署によってはすでにミーティングがはじまっている。

急所を戒める枷のせいで、どうしても歩き方が不自然になってしまうのを見咎められぬよう、必死に平静を装いながら、己のデスクに向かう間、高耶はそれとなく、社員達の様子を伺った。


自分よりも長身でしっかりした体型の、おそらく二十代後半から三十代前半の男―――だが、こうして見る限り、それに当てはまる人間はいくらでもいた。

相手の顔がわからない以上、こうして見ただけでは、男の特定は不可能に近い。

だが、こうしている今も、このフロアの何処かに、あの男が身を潜めていると思うと、それだけで目の前が赤くなった。

デスクに戻ると、ノートPCには一通の新着メールが届いていた。

また、あの男からではないかと思うと、開く気になれなかったが、仕事用アドレスの為、チェックしないわけにはいかない。

のろのろと受信箱を開くと、思った通り、男からだった。
メールには、こう書かれていた。

『朝のあなたは、可愛かったですよ』