心霊探偵八雲 mira vervion 2






暗い夜の通りを、母親に手を引かれて歩く十歳の高耶。

どこにいくのか訪ねても、母親は先ほどから、固く口を閉ざしたままで、こちらを見ようともせず、何も答えてくれない。

どれだけ長い間、歩いただろう―――人通りの途絶えた暗い路地で、ようやく足を止めた母親は、不安そうな表情で自分を見上げる高耶を前に、涙を流した。

「ごめんね、高耶―――あなたが大人になったら、きっとあの人のようになる。あなたが、こんなに大きくなる前に……その眼を持って生まれた時に、こうするべきだった。あなたはこれ以上、生きていてはいけないの。ごめんね、堪忍してね、おかあさんを許してね……」

「……かあさん……」
突然、突き付けられた、残酷な宣告。

号泣しながら自分の首へと伸ばされる二本の腕から、逃れることもせず、高耶はただ、黒と深紅の瞳を茫然と見開いて、母の泣き顔を見つめていた―――


***


まだ、完全に夜が明けきらない寝室のベッドで、細い体を抱くようにして眠っていた男は、突然、耳に飛び込んできた、いとしいひとの苦しげな声に、驚いたように目を開けた。

「……さん、……かあさ……」
ナイトランプの柔らかな光に浮かぶ、うわごとを繰り返す高耶の端正な寝顔は、悲しげに歪んでいる。

「―――高耶さん!」
強い腕に揺り起こされ、ようやく悪夢から目覚めた時、高耶の視界に、心配そうに覗き込んでいる男の顔が飛び込んできた。

「……なおえ……、」
「とても、うなされていましたよ。……大丈夫ですか?」
まだ悪い夢の続きを見ているように、酷く青ざめ、身を強張らせている高耶を、直江は気遣わしげに抱き寄せる。

男の広い胸と、暖かな体温に包まれて、ようやく安堵したのだろう、やがて落ちつきを取り戻した高耶は、すまなそうに言った。

「……悪かったな……起こしちまって……」
「かまいませんよ」
そう言って、男は微笑む。まだ、表情を曇らせたままで、高耶はバツが悪そうに、
「オレ……なんか言ってたか?」

うわごとで母親を呼んでいたことは、知られたくないのだろう。
高耶が、どんな悪夢にうなされていたかは、容易に想像がつく。

込み上げる痛ましさを表には出さず、直江は力づけるような笑を投げかけた。

「こわい夢を見たんですね。……大丈夫、ただの夢です」
そう言って、優しく宥める男の口調は、子供の頃から変わらない。
高耶は、男の胸に額を寄せて眼を閉じる。


***


あの日、偶然通りかかった直江に命を救われた高耶は、その後、病院と複数の施設をたらい回しにされ、直江家に引き取られるまでには、数ヶ月を要した。

有名な古刹であり、社会的信用もある直江家は、里親として名乗り出るには何の問題もなかったのだが、高耶が犯罪被害者であることや、加害者と思しき母親が行方不明で、他に親族がいるかもわからず、役所の許可が容易には下りなかったのである。


腰の重い役所をけしかけ、ようやく許可を取り付けて、高耶を迎えに行った日、直江が見たのは、施設の隅で、たった一人で座り込んでいる、痛ましい姿だった。

応対に出た職員は、片目の紅い子供に畏怖を感じ、内心、高耶がいなくなることにホッとしている様子が、あからさまに見て取れた。



黒い右眼は現実を、紅い左眼は死者の魂を映す。

そのことが、自分自身、よく理解できていなかった高耶は、直江家に引き取られても、生きた人形のように口も聞かず、かと思えば、頻繁にパニックを起こした。

無論、直江家の家族は皆、高耶を心から大切にしてくれたのだが、死者の姿を嫌でも見てしまう高耶にとって、墓地に隣接した寺を営む家族に迎えられることは、皮肉にも、当初預けられていた施設より、ある意味、最悪の環境だったのである。

高耶の左眼が、そうした力を持つことが、最初からわかっていれば、無論、直江は高耶を実家から遠ざけ、別の部屋を用意するなりしただろう。

このことに対しては、知らなかったからとはいえ、直江は今も高耶に対し、申し訳ないことをしたと、悔やんでも悔やみきれない思いでいる。


発作的に左眼をナイフで刺そうとしたあの日も、直江は、誤って傷ついた自分の左手首を、咄嗟に己の黒いジャケットで覆い、高耶の眼に流れる鮮血が触れないようにして、茫然としている細い体をきつく抱きしめ、涙を零した。

「どうしてあなただけが、こんなに苦しまなければならないのか―――でも、愚かな私は、その眼を持って生きることが、どれほど、あなたにとって苦しいだけだとわかっていても……あなたに、生きていてほしい……」

直江に引き取られなければ、高耶はおそらく、生涯、誰にも心を開くことなく、深い闇の中に身を置いて、今もあがいていただろう。
―――生きて下さい、高耶さん。
そう言われたあの日から、高耶の中で、何かが変わったのだ。


「―――高耶さん?……高耶さん!」
押し黙ってしまった高耶に、急に不安になった男が、心配そうに名前を呼ぶ。

再び、顔を上げた高耶の表情には、普段、よく見せるような、照れくさそうな笑が浮かんでいた。

「……ごめん。もう、大丈夫だから、心配すんな。……朝早く、起こしちまって悪かったな。まだ四時じゃねーか。もう少し眠れる」
高耶は、男の傍らに、自ら、寄りそうように改めて体を横たえた。

「高耶さん……」
直江は、まだ、ひどく気遣わしげな表情で、高耶を見ている。

眼に見えない暖かなものに包まれている感覚に、高耶はまた、照れたように苦笑して、
「もう大丈夫だって言ってんだろ。おまえは過保護すぎるんだよ」
だが、その後、高耶が小声で言った言葉に、男は耳を疑った。

―――そんなにオレが心配なら、お前の得意な方法で、オレが本当に大丈夫かどうか、確かめてみればいいだろう?

自分の吐いた言葉に、自ら赤くなって俯いている高耶に、一瞬ほうけたように見入った男は、やがて、つられたように苦笑して、悪戯そうに囁いた。

「そんなこと、言ってしまっていいんですか?本気にしてしまいますよ?」
男は優雅に上体を起こすと、細い体に覆い被さった。
だが、その眼は笑ってはいない。

男は、真摯な声で、いとしいひとの眼を見つめ、
「高耶さん……あなたには私がいる。どうか、そのことを、忘れないで……」
「……なおえ」
「愛していますよ……」

どちらからともなく、合わせられる唇。
次第に熱を帯びていく、重なりあう二つの呼吸が、室内に満ちていった。


***


眠っている高耶の手が、無意識に、隣にいるはずの男を確かめるように動く。

男の不在に気付いたのか、自然と高耶が眼を覚ますと、クロゼットの鏡の前で、ネクタイをしめている直江の背が眼に入った。
ナイトテーブルの時計に眼をやると、男がいつも家を出る時刻より、一時間も早い。

「……もう、行くのか……?」

背後から声をかけると、
「ああ、すみません……起こしてしまいましたか?」
ベッドに歩み寄り、優雅に腰を下ろした男は、乱れたシーツを被って、まだ眠そうな眼でこちらを見ている、いとしい額に口づけた。


明け方、忘れていた悪夢を久しぶりに見てしまい、その結果、あろうことか自ら行為をねだってしまった高耶は、少々(かなり?)バツが悪い。

「……ごめん。おまえ今日、早出だったんだな。その……ゆうべ、あんま寝られなかっただろ。大丈夫か?」

シーツで赤くなっている顔を半分隠しながら、ぼそっと謝る高耶に、男は幸せそうに、
「かわいいひとだ。朝から、あなたに、そんなに可愛いことを言われてしまうと、本当に困ってしまいますねぇ―――何もかも投げ出して、この体に、今すぐ続きをしてあげたくなる」

「……調子にのってんじゃねえよ」
直江は、照れたように毒づくいとしいひとの、柔らかな前髪をうっとりとかきあげてやった。

「今日は高耶さんは大学は?」
「……十時半から講義」

「なら、もう少し休んでいて下さい。ゆうべ、あなたの体を隅から隅まで確認させて頂きましたけど、少し痩せたようですよ?それに、しろいのの味も、いつもより薄めでしたし」
「てめえっ……」

真赤になってわなわなと震えている高耶に、男はクスクスと笑って、
「朝食の仕度をしてありますから、後で起きた時に召しあがってくださいね。スープはレンジで暖めて、パンはテーブルのバスケットの中、フルーツとサラダは冷蔵庫ですよ?」

赤くなった顔で不貞腐れていた高耶は、甲斐甲斐しく自分の世話をやく男を前に、観念したような笑を見せた。

「……サンキュ。講義が終ったら、午後にでも、また、そっちに顔出すから」
『そっち』というのは、無論、直江達が所属している、『未解決事件特別捜査室』のことだ。

高耶の言葉に、直江は、たちまち表情を曇らせた。
「……高耶さん。その、今回の事件についてなんですけど……」


今回の、罪もない子供ばかりが三人も狙われた無残な事件に、強く協力を申し出たのは高耶本人だった。
子供の頃、自ら殺されかけた過去を持つ彼には、同じく子供が被害にあっているこの事件を、放ってはおけなかったのだろう。

だが、捜査上で思いがけず、高耶をとりあげたという医者に会い―――しかも、その男が犯人の可能性が高いと言う。

幼少期の悪夢を乗り越え、精神的に落ちついていた高耶が、ここにきて、再び、悪夢を見たことも直江としては気がかりだし、高耶の身に何か悪いことが起こるのではないかと、嫌な予感を拭いきれなくなっていることも事実だった。

気遣わしげにこちらを見ながら、どう説得したものかと悩んでいる様子の男に、高耶はいつもの、照れたような笑を見せて、
「オレにはおまえがいるんだから、なにも心配いらないだろ。それに」

高耶は表情を改め、
「……オレは、自分が、この左眼を持って生まれた意味を知りたい。人に忌み嫌われるだけでなく、見たくもないものを見てしまうこの眼が、オレはずっと呪わしかった」

「………高耶さん」
「でも、こんな眼を持つオレを、お前や、お前の家族は、本当の家族のように迎えてくれたし、千秋やねーさんも、普通の人間と変わりなく接してくれる」

「………」
「この眼は、ただ『見る』だけで、苦しむ魂を救うことはできない……でも、それでもオレは、今、自分にできることを、やりたいと思う」

直江は、めずらしく饒舌になっている高耶を、尚も気遣うように見つめていたが、やがて、溜息をついたように微笑んだ。

これまでの彼の苦しみを知っているからこそ、高耶が己の運命を受けとめ、前に踏み出そうとしているなら、それを止めてはいけない。

「わかりました。……あなたがそこまで仰るなら、もう止めたりはしませんよ。ただし、私のいないところで、絶対に無茶はしないで。これだけは約束ですよ。もし守らなかった時は、一日中、ベッドに繋いで、たっぷりとお仕置きしてあげますから、覚悟してくださいね?」
「―――お前がそういうこと言うとシャレになんねえよ」

再び、赤くなって不貞腐れた表情を見せる高耶に、男は微笑んで、
「それでは、行ってきますよ。午後に事務所で会いましょう」
玄関まで見送ろうと、起きあがりかけたいとしいひとを、直江は制し、顎に手をかけて口づけた。

「ここでいいですよ……ゆっくり休んで下さいね。では、また後で。愛しています、高耶さん」


***


押収された多くの物証と鑑識結果により、安藤聖が『木下えりか誘拐殺人犯』と断定され、この件を報告する為、再び、木下の元を訪れるという千秋に、高耶が同行を申し出たのは、それから三日後のことだった。

直江は、また気がかりな様子で高耶を見たが、この日は、別の殺人事件の検死を頼まれている為、付き添うことはできない。

「―――このひとを頼んだぞ、長秀」
出かけに千秋の腕を掴んで念を押す直江の声は、驚くほど真剣である。

千秋はにやにやと笑って、
「わかってるって。んなオッカナイ目で見なさんな。誰かさんの大切なお姫様にちょっかい出したり、危ない目にはあわせませんて」
「誰がお姫様だ!」
怒った高耶が千秋に噛みつき、じゃれあいながら外に出ていく二人の背を、直江は気がかりそうに見送った。

「高耶さん、気をつけて」
高耶は振り向いて、苦笑した。
「ああ……無茶はしねえよ。誰かの『オシオキ』は、勘弁だからな」


***


三日ぶりに訪れた木下医院は、長期休診を告げる張り紙とともに、固く施錠されていて、どこか荒んだ雰囲気を醸し出していた。

電気が消え、ガラス製の自動ドアから内部の様子を伺えぬよう、カーテンのひかれた院内は、ひっそりと静まり返っている。

一見、無人に見えるものの、医院と隣接するマンションの一室を借りて、所轄の刑事と交代で監視を続けている綾子によって、木下が院内にいることは、はっきりと確認されていた。

建物の裏手にまわり、千秋が通用口のインターフォンを押し、警察である旨を告げる。しばらくすると、通用口のドアが開き、以前より、更にやつれた様子の木下が顔を覗かせた。

おそらく、もう何日も、ろくに睡眠も食事もとっていないに違いない。
不精髭が伸び、羽織った白衣が、薄汚れていることにも気づいていないらしい木下は、千秋と高耶を見るなり、力なく頭を下げた。

「これは、どうも刑事さん……いつもお世話になっております」
「いえ、こちらこそ。度々、お邪魔して申し訳ありません」

千秋は、木下の外見の変化に見てみぬふりをしつつ、変わらぬ様子で頭を下げた。傍らの高耶も同様に会釈する。

静まりかえった院内に招き入れられながら、さりげなく千秋が問いかけた。
「病院、休診されたんですね」

木下は力なく笑って、
「看護師がやめてしまいましてね……事件以降、患者さんも減ってしまいましたし、私もこのとおり、いまは、ちょっと、力をなくしてしまっているものですから……」

千秋はすまなそうに、
「それは……すみませんでした。刑事というのは、時折、配慮のない発言をしてしまうもので……申し訳ありません」

今回は診察室ではなく、待合ロビーのソファにかけるよう、勧められた。

高耶が、診察室のドアを凝視しているのが気にはなったが、千秋は勧められたソファを辞退し、改めて、安藤聖の件を報告し、えりかちゃん誘拐殺害容疑で被疑者死亡のまま、逮捕起訴する見通しであることを告げた。

「そうですか……犯人は……死んだんですか……」
心ここにあらずとでも言うような、虚ろな声で呟く木下に、
「こちらとしても、できれば生きている安藤を逮捕して、罪を償わせたかったのですが……このような形でのご報告になってしまい、残念でなりませんし、木下さんにもえりかちゃんにも、申し訳なく思っています」

千秋の言葉に、木下は項垂れたまま、
「いえ……とんでもありません。刑事さんには、本当にお世話になりました。犯人がわかったのですから……えりかも、きっと喜んでいるでしょう」

虚ろな声で呟く木下に、それまで少し離れたところから、木下の様子を見ていた高耶が、一歩前に進み出た。

「……木下さん」
「はい」
「私は今日、あなたに伝えたいことがあってここに来ました」
「―――?」

怪訝そうな顔でこちらを見る木下に、
「……もう、察していらっしゃるかもしれませんが、先日、こちらの安田刑事は私を同僚と紹介しましたが、実は私は、刑事ではありません。ある理由により、非公式に警察の捜査に協力している、××大学の学生です」
木下は改めて高耶の端正な顔を見た。

「民間人が、捜査に協力していることは、説明も、ご理解を頂くことも、なかなか難しいと思ったので、先日は安田刑事に頼み、刑事だと言うことにしてもらいました。嘘をついてしまって申し訳ありません」

高耶がいったい何を言おうとしているのかわからず、木下は曖昧に頷いた。

「この前はお伝えしませんでしたが、あなたもご存知の通り、私の左眼は生まれつき、ひととは違う、赤い色をしています。でも、ただ赤いだけじゃないんです。この左眼には、普通の人間には見えない、死者の魂が見える。私はえりかさんが発見された××川に行き、そこにいた、彼女の魂と対話しました」

「なんだって?!」
それまでの虚ろな様子と一変し、木下は突然、大声を上げるなり、興奮して高耶に詰め寄った。あっけに取られる千秋の前で、木下は高耶のシャツの両肩を掴み、痕が残るほど揺さぶる。

「やっぱりそうだ……やっぱりそうだったんだな!えりかは、まだあの場所にいる!君!頼む、教えてくれ。えりかは何と言っていた!!」

「ちょ、ちょっと、木下さん!」
あまりに常軌を逸した興奮ぶりに、このままでは高耶が危ないと、千秋が間に入って、半ば強引に木下を引き離す。
この場所に直江がいたら、今頃、血の雨が降っていたに違いない。


高耶から引き離された木下は、ようやく我に返ったように、
「いや、その……興奮してしまって申し訳ない……すまなかった。許してくれ。だが、高耶くん、教えてくれないか……あの子は、えりかは何と?」

尚もすがるような木下に、高耶は、何事もなかったように淡々と、
「彼女は苦しみ、泣いていました。……泣きながら、『お父さん、やめて』と」

「!………」
それを聞いて、黙り込んだ木下を見据え、高耶は、静かに言葉を続ける。

「えりかさんの魂は、行くべき場所に行くことを望んでいるのに、あの場所に縛りつけられ、とても苦しんでいます。彼女の魂を縛っているのは、木下さん……あなたの、その、あまりに強すぎる娘さんへの思いなんですよ」
木下は、項垂れたまま何も答えない。

「あなたが、どれほど、えりかさんを大切にしていて、彼女をなくして嘆いているか、こうしてお会いしてお話しただけでも、痛いほどわかります。でも……もう、そろそろお嬢さんを、楽にしてあげては如何ですか?」

木下は、しばらく無言で何かを考えているようだったが、やがて、顔を上げると、
「……高耶くん。私は、この前、君のお母さんが君を殺そうとしたと聞いて、それにはきっと理由があるといったけれど、私は……すまないが、私には、自分の子供に手をかける親など、とてもじゃないが理解できない。あの子は、今も私の命だ。まして、えりかは……あの子の魂は、まだ、あの場所にいるんだ。私は……」

両拳を握り締め、唇を噛み締めて、わなわなと震えている木下に、高耶は眼を伏せて、
「……そうですか。私はただ、えりかさんの声を伝えにきただけですから……あなたが、そう仰るなら、私にお手伝いできることは、もう何もありません」
高耶は頭を下げ、千秋に、用件が済んだことを眼で伝えた。


帰り際、千秋が思い出したかのように付け加える。
「ああ、それから……言い忘れましたが、えりかさんの事件の犯人は安藤と特定されましたが、残りの二人を殺した犯人は、我々は別にいると見ています」

「………」
木下の眼に、僅かに動揺の色が走ったのを、千秋は見逃さなかったが、何もなかったように頭を下げて、
「また、何かありましたら、お邪魔すると思いますが、とりあえず今日はこれで失礼します」

千秋に続き、元来た通用口から、出ていこうとする高耶の背に、木下が言った。

「……高耶くん……君、お父さんのことを知りたくはないか?」
ぴくっと眉を吊り上げた高耶は、振り向きざま、冷たく言い放った。
「興味ありませんね。それでは、これで失礼します」


***


木下医院を後にし、高耶と肩を並べて歩き出した千秋は開口一番、あきれたように言った。

「仰木、お前、大丈夫だったか?てか、いったい、なんなんだ?木下の、あのさっきの異様な興奮ぶりは……ありゃ、とてもマトモにゃ見えなかったぞ。直江がいたらどうなってたか」

だが、高耶はそれに答えずに、暗い表情で、
「―――千秋。木下の監視は、続けているんだろうな?」

「……あ?ああ。あんまりじろじろ見んなよ?ほら、そこ……薄いピンク色のタイル張りのマンションあるだろ。そこの空き部屋をひとつ借りて、二十四時間、所轄の刑事と交代で監視を続けてる。今も、晴家がいるはずだ」

「……そうか。なら、かまわない。そのまま、監視を続けてくれ」
それだけ言って、高耶は石のように黙り込んだ。

高耶が今、何を考えているのかは、聞かずともわかる。
帰りがけに、木下が言ったあの言葉―――千秋は、高耶の横顔に、まるで直江のような気がかりな眼を向けた。

(……木下は、母親だけでなく、こいつの親父のことも知ってるのか?)
無論、妻の出産に夫が立ち会うのはめずらしくもないだろうし、木下が高耶の父親を知っていても当然といえば当然なのだが……それでも、なぜかわからないが、嫌な予感がする。

千秋は横目で黙りこくっている高耶を見遣った。

こいつの身に、何もなければいいが。



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