妖僕ミラバージョン 1






彼らが主従契約を交わしたのは、今から、ちょうど一年前の、2007年4月のある日。

いまこの瞬間にも、命の炎が尽きようとしている男に、そのひとは言った。
とある条件の元に、お前を助けてもいいと。

この世のものとは思えない紅い双眸が、男を捕える。その紅い眼に、魅入られたように―――薄く微笑みながら、男は、確かに頷いた。


***


その日、顧客を見送り、男がようやく帰路につく頃には、すでに深夜をまわっていた。

真言宗豊山派の、ある末寺の三男に生まれた男は、今年で二十八になる。
兄弟の中でも、一際、長身で、恵まれた体躯と容姿を持つ彼は、その外見からは一見、想像もつかないが、住職として家業を手伝う傍ら、長兄が興した企業でもその補佐を勤めるなど、多忙な日々を送っていた。

タクシーを拾おうと手をあげかけたところで、男は、ふと、街灯に照らし出された桜並木に眼を奪われた。

週末の夜、たまに歩いて帰るのも悪くはない―――この判断が、その後の、己の運命を劇的に変えることになるのだが、無論、この時、男はまだ、知る由もなかった。

都心の一等地でありながら、閑静な住宅街。
綻びはじめた桜並木を進み、自宅マンションまで、あと少しで辿りつくという時だった。
背後から、一台の乗用車がまっすぐ、こちらに向かって突っ込んできた。
何事かと、振り向いた男の記憶に残っているのは、すでに目前に迫った乗用車の、目も眩むほどのサーチライトだけだ。



「―――!」
自分に何が起きたのか理解する間もなく、刹那、ドン、と言う鈍い音とともに、男の長身がパンバーに叩きつけられ、ぼろぎれのように宙を舞い、次の瞬間には冷たいアスファルトの上に無残に叩きつけられていた。

キキ-ッと言う、耳障りな音とともに、急停車した車の、フロントガラスはひび割れ、ボンネットもへしゃげてひどい有り様だが、それでも、運転していた若いチンピラ風の二人組は奇跡的に無傷だった。

「馬鹿野郎ッ!ひっかけるだけにしろと言っただろうが!誰も轢き殺せとは言ってねえ!」
おそらく、兄貴分と思われる助手席の一人が、運転席の金髪の男の頭を殴りつけた。

「ヤバイぞ。あいつ、動かねえ……」
アスファルトに横たわる男の周囲に、見る間にどす黒い血溜まりが広がっていく―――青くなった二人組は、男を助けることなく、急発進をかけ、その場を猛スピードで走り去った。


乗用車が逃げ去り、深夜の住宅街は何事もなかったかのように、元の静けさを取り戻す。
血の海の中で、ようやく目を開けた時、男は、はじめて、自分が轢き逃げされたのだと知った。

「……ッ……、」
起き上がろうとしたが、無論、それは叶わなかった。
もはや、何処が痛むなどというレベルではなく、声を出すことも、指一本、動かすこともできなかった。おそらく、手足は無論、全身の、あちこちの骨が折れている。

時間を追うごとに、周囲の静けさは増すばかりで、異変に気づいた誰かが助けに来る気配もない。

実家の仕事柄、幾度となく、ひとの死に触れることはあったが、まだ若い男にとって、己の死は、遠い先のものだとばかり思っていた。
それが、一気に、現実味を帯びて目の前まで迫ってきていた。


死とは、こんなにもあっけなく訪れるものなのか。
不思議と、犯人達への怒りは沸いてこない。
ただ、自分はこんなことで死ぬのかと思うと、苦笑いせずにはいられなかった。


おそらくは出血のせいだろう。
少しづつ意識が遠ざかる中、幻聴だろうか。こちらに近づく足音が聞こえる―――そのまま、永遠の闇へと堕ちていきそうになった時、間近でひとの声がした。

「……あんた。まだ、生きてるか?」
(―――え……?)
男は、鳶色の眼を瞬かせる。
いまや、男に取って、唯一、動かせる眼の端が、一人の青年の姿を捕えた時、そのひとは、しゃがみ込むようにして、こちらを覗き込んだ。


***


街灯に照らされた、漆黒のさらりとした髪に、息を飲むほど整った、印象的な顔立ち。何より、男が魅入らずにいられなかったのは、彼のその強い眼だった。
「……」
何か言ったつもりだった。だが、ひゅう、という掠れた音が出ただけで、言葉にはならない。

「……ひどいもんだな。もってせいぜい、あと五分ってところか」

恐ろしい言葉を吐きつつ、青年は、おかしな方向に折れ曲がっている男の腕をそっと持ち上げ―――あろうことか、紅い舌先を這わせ、指先に滴る鮮血をぺろりと舐めた。

「―――!」
死にかけの男の心臓が、別の意味でバクバクと鳴った。
同性に惹かれるような趣味はない筈なのだが―――どれほど上等の女をはべらせ、奉仕させた時も、これほどまでに、ゾクリとさせられたことはない。

ざらつく舌の感触に、体温が感じられないのは、自分が死にかけているせいだろうか。

血まみれの指を、エロティックに吸われて、動揺しきった瀕死の男は、ようやく、喉奥から、掠れた声を絞り出した。
「な、……っ、」
なにをするんです、と、言ったつもりだったが、やはり、言葉にはならなかった。

「うまいな」
青年が、優雅に微笑む。
「……オレをこの場所まで呼んだだけのことはある。おまえの血は、甘い。……それに、おまえの持つ『気』は悪くない。このまま死なせるのは、惜しい」

―――何だ?
このひとは……いったい、何を言っている?

男の動揺をものともせず、まだ、口元に残る血を優雅に拭って、青年は子悪魔のように笑った。その顔は、やはり、ゾクッとするほど美しい。

青年は、男の血で重くなったジャケットの内ポケットを探って、財布から免許証を取り出すと、その写真と横たわる男の顔を見比べ、確めるように言った。

「……直江信綱。あんた、直江って言うんだな?」
遠のきかける意識を必死に手繰り寄せるようにして、頷く男の耳に、青年の声が響く。

「直江。気の毒だが、お前のその怪我じゃ、今から医者に運んだところで、あと何分も持たない。だが、お前がオレの奴隷になり、オレとともに生きるなら、オレがお前を助けてやる」

奴隷、と言うとんでもない言葉を聞いて、瀕死の男は、閉じかけた鳶色の眼を再び、見開いた。
このひとは、いま、何と言った?

―――奴隷?
いまにもくたばる寸前の人間にいったい何を言い出すのか。
男が、あきれたような笑を口端に浮かべ、虚ろな眼で青年を見上げると、いつしか、自分を覗き込む彼の双眸が、この世のものではない、紅い色に染まっていた。

美しい、ルビーのような深紅の瞳が、男を見据える。
これは、夢か?
このひとは、いったい……それとも、もしかしたら、先ほどの事故で、自分はすでに死んでいて、覚めない夢でも見ているのだろうか。
今にも、命の炎が失われつつある男の耳に、青年は尚も告げる。
「答えろ、直江信綱。……このまま死ぬか?それとも、オレの傍らで共に生きるか?」

ずい、と身を乗り出して、覗き込む青年にそう問いかけられた時、男は、彼に魅入られるように、微かだが、はっきりと頷いていた。

自分に残された時間は、本当にあと僅か―――それがわかるからこそ、あともう少し、できればもっと―――生きて、この不思議な青年のことを知りたいと思った。

「……本当だな」
青年は、念を押す。
「裏切りは、許さない。最後の一秒まで、オレとともにあると誓え」
「………」

再び、微かに頷いた男の鳶色の眼は、もう何も映すことはなかった。急速に、命の炎が消えかけ、青年の声が、遠ざかっていく。
「―――契約は、結ばれた。直江信綱。お前は、もう、オレのものだ」

絶命寸前の男の割れた額に、青年の、冷たい手のひらが押し当てられる。
青年が、呟くように何かを念じると、彼の体から、その瞳と同じ深紅のオーラが立ち昇って、横たわる男の全身を包み込んだ。


***


それから、いったい、どれだけの時間が経ったのか。
「―――いつまで寝ている」
青年の声を間近に聞いて、直江はハッと眼を開けた。

「気分はどうだ?」
覗き込む青年の眼は、元の黒い色に戻っていた。どうやら、いまの出来事は、夢ではなかったらしい。

「……わ、私、は……」
血の海のなかで、恐る恐る上体を起こした男は、自分が動けることに驚愕した。

全身を襲っていた恐ろしい激痛はどこかに消え失せ、先ほどまで、折れてぶらぶらになっていた手足も、嘘のように、なんともない。

「そんな、ばかな……っ」
日頃、冷静と言われる男だが、どう理解すればよいのかわからぬこの事態に、さすがに動揺を隠せない。まさか、本当に、この青年が自分の怪我を治したのか?

「高耶だ」
ぶっきらぼうに彼には言った。
あまりにも混乱しきった男には、それが、彼の名であると理解するまで、尚、しばらくの時間が必要だった。

「た、高耶……さん……?」
「ああ」
直江は、改めて、鷹揚に頷く青年を見た。
ほぼ左右対称の完璧な輪郭に、きつそうな切れ長の目許。すっきりと整った鼻梁に、少し、肉厚の唇―――本当に、こんなに綺麗なひとを、これまで見たことがない。

「なんだよ。オレの顔に何かついてるか?」
「い、いえ、そんなことは……」
「なら、とっとと立て」
「………」
急かされるままに立ちあがった体は、やはり、何処もなんともない。
だが、そうして、立ってみて、改めて、己の周囲に広がる血の海と、散乱した車のガラスやライトの破片にギクリとさせられた。

何よりも、ズタズタに裂けたスーツと、鮮血に染まったシャツが、今更ながら、事故の凄まじさを物語っている。

「あっ……あの……高耶さん。すみませんが、その……私には、まだ、何がなんだか―――」
すると、高耶は動転しきった男のネクタイをグッと掴んで、こちらへと引き寄せた。端正な顔を改めて間近に見て、男はうっと息を飲む。

「……言っておくがな。そうやって、何とか騒いでごまかして、オレから逃げようとしたって無駄だぞ、直江。―――お前はもう、オレのものになったんだからな?」

聞きようによっては、ものすごい殺し文句に聞こえなくもない。
こんなに至近距離でこんなことを言われたら、相手がどう思うかなど、このひとは、欠片もわかっていないようだ。
だが、凄んで見せたその顔が、心なしか、青ざめて見えたので、男は、おそるおそる問いかけた。

「あの……高耶さん……顔色が……?」
「お前を治すのに、力を使ったからな」
高耶の答えは、どうにも、男の理解の範疇を超えている。

「それより、直江。お前の家はここから近いのか?」
男は、1ブロックほど先に、銀色にそびえる高層マンションを示した。
「そこに、お前の家族はいるか?」
男がいいえ、と応えると、
「ならば、ちょうどいい。そこに行って、まずは着替えろ。お前のその様は、どう見てもゾンビにしか見えない。誰かに見られたら面倒だからな」


***


そうして、男は高耶を伴って、ようやく自宅に戻って来た。
ここは、男の長兄の会社が所有する物件の一つだった。高層マンションの最上階ということもあり、窓から望む都心の眺望は素晴らしい。

高耶はどうやら、この部屋を気に入ったようだった。
部屋に入るなり、リビングのソファに長い脚を組んで腰掛け、眼窩に広がる眺望を優雅に見下ろしている。

そんな状況ではないとわかっていながら、男がつい、その姿に魅入っていると、高耶が呆れたように言った。
「いつまでそんな格好でつっ立っている……目障りだ。さっさと風呂に入って着替えてこい」

容赦なく、浴室に追いたてられ、バスルームの鏡に映った、頭からバケツで血を被ったような己の姿に、我ながら絶句させられる。
男は、ひとまずそれ以上、考えるのを諦め、言われた通り、シャワーを浴びることにした。

まだ、頭は混乱しきったままだが、ボロボロに裂け、血で重くなったスーツとシャツを脱ぎ捨て、熱めの湯を頭から浴びると、僅かだが、人心地がついた。

血と泥を洗い流し、真新しいシャツに着替え、いったい何から話を聞けばいいのかと思案しながら男がリビングに戻ってくると、高耶はソファに細い体を沈めて、眼を閉じていた。
その寝顔は、何処か幼く、儚く見える。

「た、高耶さん?……そんなところで眠ったら駄目ですよ。風邪をひきます」
もう少し、寝顔を眺めていたいと思いながらも、直江がそっと声をかけると、高耶はうるさそうに薄目を開けたが、着替えを済ませ、目の前に立つ男の姿に、一瞬、驚いたように眼を見瞠った。

直江は、先ほどまでとは打って変わって、まるで別人のようだった。
日本人離れした長身と、それに見合う、引き締まった体躯。モデルか俳優のように整った容姿。
何より、男の、鳶色の、包み込むような優しい眼差し―――
「………」
「あ、あの……高耶さん。どうかしましたか?」

手に入れたばかりの男に、一瞬とは言え、まさか見惚れたとは言えず、高耶はわざと不機嫌そうに、
「なんでもない。お前をオレの家に連れていくつもりだったが、少し力を使いすぎた。今日はここで寝ることにする。ベッドに連れていけ」

高耶がそういう意味で言ったのではないとわかっていながらも、男はどぎまぎせずにはいられなかった。この、高耶と言う謎の青年に、男は情けなくも翻弄されっぱなしである。
「早くしろ」
「わかりました、その……失礼します」
男は、おずおずと高耶の体に手を伸ばし、横抱きに抱え上げた。そうして抱き上げてみて、このひとは、ちゃんと食べているのだろうかと不安になった。

寝室に運び込み、広いベッドの中央にそっと下ろすと、高耶はたちまち、子供のように背を丸めた。
「もう、遅い。―――話は明日だ。お前も早く寝ろ」
「は。はあ……その……おやすみなさい」

何がどうなったのかわからないが、とにかく、とんでもないことになってしまったと、男が惑う間もなく、高耶は静かな寝息を立てはじめる。
人形のように端正な寝顔は、やはり、驚くほどに無防備で、幼い。
(……まいったもんだな……)
これ以上、この寝顔を見ていたら、不埒な行動に出てしまいそうだ。

男は嘆息して、高耶が風邪をひかぬよう、ブランケットを肩まで引き上げてやると、リビングに戻り、先ほどまで彼が寝ていたソファに、大きな体を丸めるようにして横になった。

横になると同時に、あまりの出来事に体が限界だったのが、すぐに瞼が重くなってくる。
まもなく、けたたましいサイレンが鳴り響く音がしたが、それにも構わず、男は、泥のような眠りに落ちた。



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