妖僕ミラバージョン 3





男が、高耶と主従契約を交わした日から二週間が過ぎた。

直江を轢き逃げした犯人は、いまだ逃走中であり、千秋も、奈良の調伏旅行(本人がそう言っていた)に出かけたきり、戻っていない。

『下僕』になったとはいえ、直江のその後の生活が、特に変わることはなかった。

かつての主に、学問や職責を全うすることの大切さを教えられたせいだろう、高耶が、男が仕事を続けることを、あっさり許したからである。

更に、臣下や領民を何より大事にしたという主の元にいたせいか、高耶は直江に無理や難題を言いつけるようなこともなく、そうした意味では、男は、彼のかつての主にも、感謝すべきなのかもしれなかった。


この日も、長兄のオフィスを後にした男は、その足で、高耶が『店番』をしている、あの骨董店に向かった。

いつものように、うず高く積み上げられた品々の合間を縫うようにして、男が店内に足を踏み入れると、高耶はレジ脇の椅子に腰掛け、台帳に眼を通しているところだった。

高耶は、シャツにジーンズというラフな格好をしていたが、彼にしてはめずらしく伊達眼鏡をかけていて、男は思わず、目許を綻ばせた。

先日、食事がてら通りがかった店の店頭で、彼が興味半分でかけた眼鏡が、事のほか似合い、直江がぜひにと薦めて造らせ、贈ったものだ。

銅鏡から解放されて半年の高耶は、いまだに、この時代、どんな服装をすればよいか、よくわからないらしく、しかも、あまり出かけたこともないとあって、それをいいことに、男は、何かと理由をつけては彼が好みそうな場所に車で連れだし、似合いそうな服や小物を片端から贈っていた。

高耶にとっては、所詮、仮初の体なので、何を着ようが、本音はどうでもいいのだが、かと言って奇抜な格好で人目をひくのも愚かだし、何より、直江があまりに熱心なので、下僕が喜ぶのであれば、それも主の勤めと納得しているらしい。


「……直江」
このところ、見せてくれるようになった、不器用な笑に迎えられ、直江は「おつかれ様です」と微笑みながら、そのひとの傍らに歩み寄った。

「その眼鏡、かけて下さってるんですね。とってもよく似合っていますよ」
「ねーさんにも言われた。……さっきまでいたんだけど。これから、この近所で飲むから寄ってみたって、浮かれてたな」

ぴく、と男の眉が反応した。そう呼ぶからには、女なのだろうが、彼の口から、女の話題が出たのは、これがはじめてである。
「誰です?」

男が早速、問いつめると、高耶は、嫉妬深い哀れな下僕の心も知らずに、
「あぁ、お前はまだ、会ったことなかったっけか?確か、綾子とか、晴家とかって呼ばれてたかな……表向きは美容師とかなんとかで、裏では千秋の同業者」
「術者ですか……」
とりあえず、特別な間柄ではないらしいことに、男は内心、安堵しながら、尚もそれとなく話を促した。


聞けば、封印から解かれた当初、高耶は胸につくほど長い髪をしていたのだそうだ。
だが、今の時代にそぐわないし、かと言って、いきなり、そこらの美容院に連れて行くわけにもいかないだろうと、千秋が、色部を通じて顔見知りだった、表向きは美容師の綾子に声をかけ、カットを頼んでくれたのだと言う。

以来、綾子は時々、店に冷やかしがてら、顔を出すようになったのだそうだが、高耶が真顔で、
「髪型にしろ服装にしろ、人間の体というのは、本当にやっかいだな」
と、うんざりするように呟いたので、男は苦笑いしつつも、内心、複雑な思いだった。


高耶の願いは、直江が一日も早く術者として覚醒し、彼にかけられた呪を解いて(ひとの手でかけられた呪は、ひとの手でしか解けない)、封じられている、いまの仮初の体から解放してくれることだ。

その時が来たら、高耶は男を自由にしてやると、はっきり言っている。
だが、彼のその願いとは裏腹に、出会ってわずか二週間の間に、すでに男は、高耶から離れることなど考えられなくなっていた。

例え、この魂を、この肉体から解放する術を身につけたとしても、絶対に解放なんてしてやらない―――むしろ、どうしたら、このひとを縛りつけておけるだろうと、気がつけば、そればかりを考えている。

(このひとは、よりによって最悪の人間を下僕に選んだ。そして、そのことに、まだ気がついていない)


「―――直江?」
ますます、暗い思考に陥りそうになって、男は、ようやく高耶が、こちらを怪訝そうに見ていることに気づき、心を読まれはしなかったか、冷やりとしつつも、取り繕うように言った。

「いまのあなたの髪型も、とても似合っていますが、髪が長かったというあなたも、ぜひ一度、見てみたかったですね」
「なんで?」
あきれたような照れたような表情を浮かべる高耶に、内心、安堵しつつも、男はしゃあしゃあと歯の浮くような言葉を続けた。

「あなたは、とても綺麗ですから。どんな髪型でも、似合うだろうと思いまして」
「こんな、つくりものの体なんか、綺麗もくそもないだろ」

いかにもつまらなそうに高耶は言い、目を通していた台帳を脇に押しやって、男に向かいの椅子にかけるよう、促した。
同時に、「力」で消したのだろう、店内の照明がフッと暗くなる。


直江は、いつものように彼の向かいに腰を下ろすと、瞼を閉じて、精神統一をはじめた。

このところ、毎日のように、こうして念を高める訓練を続けているのだが、さすがに元が僧侶だけのことはあり、男の飲み込みは驚くほど早く、高耶は満足そうに、自ら選んだ下僕の様子を見守っている。
ゆっくりと、だが確実に力を高めていく男を前に、高耶が囁くように言った。

「そうだ……集中を切らすなよ。……そのまま、眼を開けてみろ」
男が言われるままに眼を開けると、両手のなかに、琥珀色の炎が蜃気楼のように立ち昇っていた。
自らの「気」を、男が、己の眼で確めたのは、これがはじめてである。

高耶は満足そうに、
「―――綺麗だろう?それが、お前の『気』だ。お前はいまに、その気を操って、自由に力を使いこなせるようになる」

直江は集中を切らさぬよう必死だったが、己が生み出した琥珀色の蜃気楼の向こうに、妖しく揺らめく美しい主の姿を認めるや否や、たちまちその集中は途絶え、次の瞬間、大きく息を吐くと同時に、炎は嘘のように消え去った。

「……すみません」
なんとなく、後ろめたい思いで男が告げると、高耶が苦笑した。
「別に謝る必要ないだろ?変な奴だな。それより、なかなかよかったぞ、直江。普通なら、たかが二週間の訓練では、これほどの気は生み出せない」

このひとが喜んでいるのは、自分が力を使えるようになれば、それだけ解放の日が近づくからだ―――再び、暗い思考に陥りかけた下僕の複雑な心境など知る由もなく、高耶は店先の古びた掛け時計に眼をやるなり、徐に腰をあげた。

「(店を)閉めるぞ。手伝え」
「え……でも、まだ七時前ですよ、いいんですか」
本来なら閉店は八時のはずなのだが、高耶は悪戯そうに笑った。
「どうせ客なんか来ないんだから、かまやしないだろ」


***


買い物を済ませ、彼らが揃って男の住む自宅マンションに戻ってきたのは、それから一時間後のことだった。

直江は、この二週間の間に、高耶をまんまと同居させることに成功していた。
当初、通うのが面倒だといい返事をしなかった高耶だが、「主の側で世話をするのは下僕の勤め」とばかり、あの手この手で毎日、彼を店から連れ出して持ち返るうちに、ついには、なし崩し的に同居生活にこじつけてしまったのだ。

目下の目標は、「同居」から、いかに「同棲」にこぎつけるかだが、ひとまずここは男のねばり勝ち、と言ったところか。

先にエレベータを降りた細い背を追うように、二人分の食材がぎっしり詰まった高級スーパーの紙袋を抱えた直江が後に続くと、高耶はいつものように、早速、キッチンに入って夕食の準備に取りかかりはじめた。

一緒に暮らすようになってわかったのだが、高耶の料理の腕はなかなかのものだった。
彼が言うには、「本さえ読めば、料理ぐらい誰でもできる」そうだが、その手際のよさには毎回、驚かされる。

食材の下準備をはじめた高耶の傍らで、男が「なにか手伝えることはないですか」と問いかけると、いつものように、素っ気ない答えが返って来た。

「ろくに包丁も使えない奴が何を言っている。いいから、シャワーでも浴びて来い」
「主をキッチンに立たせて、下僕が先に入浴、というわけにはいきませんよ」

このところ、口答えするようになった生意気な下僕に、今度は高耶が「邪魔だ」と冷たく一蹴するが、それでも、男はキッチンの戸口に立って、なかなか出ていこうとしなかった。

何しろ、高耶の体は、熱や痛みを感じないらしく、熱湯でシャワーを浴びて、浴室から濛々と吹き出す湯気で、異変に気づいた直江を慌てさせたり(煮立つほどの湯を浴びながらも、彼はけろっとしていた)、高温の揚げ油に指を突っ込んでみたりと、心臓に悪いことを平気でやらかす為、直江としては彼から一瞬たりとも眼が放せないのだ。

―――無論、単に少しでも側で彼を見ていたいと言うのも、紛れもない本音なのだが。

いい加減、見られているのが鬱陶しくなったのだろう。
振り向いた高耶が包丁を片手に睨みつけ、「出ていけ」と命じると、さすがの下僕も、苦笑しつつ、これには従わざるを得なかった。



数十分後、二人は出来あがった料理を前に、ダイニングテーブルを囲んで向き合っていた。

高級ロブスターを贅沢に使った海老フライとサラダ、彩りの美しいミネストローネ。
高耶の場合、レシピだけでなく、盛りつけまで、本で見たまま記憶してしまうらしく、手をつけるのが惜しくなるほどの見事な出来映えだが、これだけの料理をつくった当人は、たいした感慨もないらしく、フォークで豪快にロブスターを突き刺すなり、子供のようにパクつく姿は、見ていて微笑ましく、直江は微苦笑せずにはいられなかった。

(かわいいひとだ……)
ついつい、見惚れて手が止まっていると、視線に気づいた高耶に、あきれたように睨まれる。

「お前なー。オレの顔見るの、そんなに楽しいか?」
「すみません……その、つい、」
あなたが、あまりに可愛くて、という言葉を飲み込み、男は中断していた食事を再開する。
一口大にカットしたロブスターを口に運び、味わうように嚥下して、その味を賞賛すると、高耶は意味ありげに笑った。

「そうか、それはよかった。オレは下僕を飢えさせるような趣味はないからな。この程度の料理でいいなら、いくらでもつくってやる」

そんな、嬉しい言葉の後に続くのは、少々、冷やりとさせられる言葉だった。

「だが、ただでオレの手料理が食えると思わないよな、直江?」
幸せそうな男の笑が、強張る。
高耶は悪戯そうに笑って、
「後で『仕事』だ。お前、明日、休みだしな。少しぐらい多めにもらっても大丈夫だろう?」

現時点で、直江の下僕としての唯一の仕事と言えば、ただ一つ。つまり、血を吸われることである。

美しい主の眼が、妖しくくるめくのを認め、男は弱々しく微笑しながらも、しっかりと己の首筋を差して、「こちらでお願いします」と、リクエストするのを忘れなかった。




To Be Continued.