「untitled」4






乱れきったベッドの上。
長い手脚を投げ出して、高耶はぐったりと眼を閉じている。
打ち捨てられたマネキン人形のように、身じろぎもしなかった指先が、不意にピクッと動いた。

「―――う……、」
形のいい唇から、掠れた、声にならないうめきが零れる。
泣き腫らした瞼が、うっすらと開いた。

開ける視界―――麻酔が切れればまた見えるようになる。そう告げた男の言葉通り、視力は嘘のように回復していた。



室内に、男の気配は感じられない。

虚ろな眼で周囲を見渡すと、カーテンの開け放されたベランダから降り注ぐ柔らかな光と、男が置いていったらしい、枕元の薔薇の花束の眼の覚めるような深紅が、視力を取り戻したばかりの双眸を突き刺した。

ゆっくりと身を起こそうとすると、体の中心から脳まで突き上げるような激痛が走り、同時に、陵辱された箇所からドロリとした生暖かいものが溢れ出て、シーツを濡らす。

強いられた淫らな行為の数々がフラッシュバックし、高耶はたまらず、己の唇を押さえ、堪え切れずに零れるうめきを必死に噛み殺した。


「―――……」
男の身で、男に犯されたのだという事実。

それも、一度や二度ではなく、長い時間をかけて、あの男は何度も何度も、高耶のはじめての体に欲望を突き立てて、奪い尽くした。

唇を切れるほど噛み締めて、必死に上体を起こすと、壁面の鏡に、青ざめた己の惨めな姿が映る。

咄嗟に眼を逸らし、奥歯を擦り減るほど噛み締めて、ベッドを降りようとすると、歩くどころかマトモに立つことすらままらなず、枕元の花束と、体に絡まっていた乱れたシーツごと、ずるずるとその場に倒れ込んでしまった。

「―――!」
叫びたいほどの激痛を堪え、どうにか顔を上げると、花束に添えられていたらしい白い封筒から、あられもない姿で戒められているポラロイドが半分ほど顔を覗かせているのが眼に入った。

カッと顔を赤くした高耶は、咄嗟に、手元に転がっている花束を鷲づかみにし、鏡の壁に向かって思いきり投げつけていた。
「―――畜生ッ!」



それから高耶はしばらくの間、深紅の花びらが散乱するフローリングの床に膝を抱え、ベッドによりかかったまま、微動だにしなかった。

陵辱されたショックは簡単に癒えるはずもなく、傷つけられた体はひどく衰弱していたが、それでも時が経ち、顔を上げたその眼にはいつしか、彼本来の強い光が戻ってきていた。



帰宅後、内鍵をかけたことははっきりと覚えているから、男が、合鍵を使ってこの部屋に侵入したことは明白だ。

この部屋は自社物件で、当然、管理は橘不動産が自ら行っており、オフィスにはマスターキーが保管されている。

かつてこの部屋に住んでいた住人が、退出後も密かに鍵を持ち続けていたとも考えられるが、男が社内に潜んでいる可能性は高い。

だが、入社してまだ一週間程度ではあるが、周囲にあの声の持ち主はいなかったし、心当たりもなかった。

いずれにしても、前居住者のデータを調べる価値はあるだろうが、慎重にやらなければ―――迂闊に動いて、美弥に万が一のことがあれば取り返しがつかない。

高校時代から自分を追い回していたというあの男。
例え、今の仕事をやめて別の土地に移ったとしても、あの男は執拗に追ってくるだろう。
そう考えただけで背筋に冷たいものが走るが、同時に、高耶の心に激しい怒りが込み上げてきた。

あんな奴……誰が恐れたりするものか。


***


男が、隣室に身を潜めていることなど夢にも思わない高耶は、やがて、痛む体をおしてシャワーを浴び、身支度を整えると、一階の複合店に電話をかけ、鍵を扱う店の担当者を呼び出して、その場でシリンダーごと鍵を替えさせた。

鍵を替えたことを知れば、男は何かしら次の行動を起こしてくるだろう。

恐怖がまったくないと言えば嘘になるが、このまま大人しく、ただいいなりになってたまるかと思った。

きっと、何か方法がある。高耶はギリッと唇を噛み締めた。
(―――このままではすまさない)


***


高耶の室内に仕掛けられている複数の監視カメラと、マジックミラーのこちら側で、一部始終を見ていた男は、溜息をつき、「こまったひとだ」と呟いた。

あれだけ時間をかけて、あなたはもう俺のものなのだと、たっぷりと教えてあげたのに。

そんな市販の鍵など、いくら替えても無駄だし、何より、誰ともわからぬ相手を自室に呼びつけ、鍵を替えさせるなど、おいたとしては度を越えている。

訪れたキー・ショップの店員は、応対に出た高耶を見た瞬間、明らかに動揺していた。鍵を付け替える僅かな間も、高耶を気にして落ちつかない様子だったではないか。

あなたは、自分が、どれほど他人を狂わせるか、まったく理解していない。

無防備すぎる高耶へのお仕置きは、後でたっぷりするとして、あの店員をこのまま放っておくわけにはいかない。



男が手元の携帯を取り上げると、僅か数秒のコールで、相手はすぐに出た。
『お呼びですか?』
「キーショップの××と云う店員を見張れ。もし、あのひとに近づくようなら……」
『心得ております』

通話はそれだけだった。
そうしている間も、男の眼は、鏡の壁の向こうにいる高耶に注がれている。
いとしいひとを見つめる男の眼は、獲物に食らいつく狂犬そのものだ。

「高耶さん……」
愛していますよ―――男はうっとりと囁いた。

あなたに近づこうとする者は、誰であろうと容赦はしない。